嵐山文学
『 秦河勝ていう人がいたような気がします。
聖徳太子の侍(?)だった気が…土佐の長曾我部氏は河勝の子孫て
いわれていますが、本当なんでしょうか。』
昨年の秋に柴田さんから返事が来ました。嵐山の歴史をすでに調べ
秦河勝については知っていましたが、秦氏についてより詳しく知りたく
尋ねてみたことへの初めの返事でした。
今年漸く暇が取れたので長曾(宗)我部氏について調べ始めて意外にも
早く秦氏との関係が分かりました。驚きました。
『凧は古代中国で兵器や宗教的な占いの為に作り出され、平安時代に
我国に渡来したと言われています。 土佐では、長曽我部氏が戦国時代の
四国平定に、空とぶ兵器としてこれを用いました。』
この一文は別件で高知について検索していて目にしたものです。
長曽我部氏に関する知識はほとんどなくYAHOO検索で300近く
あったものの(四国全土を制覇した一族だから当然著名)祖先に触れた
ものは見つかりませんでした。しかしながらこの一文は、私に
長曽我部氏についての人物像を秦氏に近づけるに充分過ぎるものでした。
土着の日本人ではないと強く思いました。
早速、平凡社の百科事典で長曽我部元親を調べてみて
次のことが書いてありました。
「土佐の豪族で先祖は秦河勝から出たという。秦河勝は任を土佐に受け、
辞任後土佐長岡郡宗我部郷におり、それをもって族称とした。
その中期を[能俊]といい長曽我部の始祖とされる。
甘枝・野田・大噤E吉原に3000貫の地を領した。
そしてさらに後、[信能]の時、足利尊氏に従って軍功をたてた。
永正(1504−1521)の頃、[兼房]は高知・岡豊城にあり
威を振るったが本山・山田・吉良氏等の謀計にあって殺された。
その子[国親]は国司・一条氏の援を得て岡豊城に復帰、
香美・長岡二郡をその手中に収めた。
[国親]の子[長曽我部元親]の代が長曽我部氏の最盛期である。」
(新田英治)
さらに長曽我部元親の項では
「土佐岡豊城に生まれ、幼名弥三郎、宮内少輔と称した。
1560年に家を継ぎ、国内の豪族本山・吉良・安芸氏らを攻めて
その領地をあわせ、73年に国司一条兼定を豊後に追い、その子内政に
自分の娘を配して擁立。75年に土佐全国を平定した。
80年には内政を伊予に追放し、82年までに阿波・讃岐・伊予に
出兵して威を振るい信長の阿波攻撃を受けるものの本能寺の変により
形勢を逆転、84年四国全土平定した。
1587年秀吉の攻撃を受けて阿波・讃岐・伊予を手放したが、
87年九州征伐の功により侍従に任じられ土佐守となる。
朝鮮再征から帰国後京都伏見にて没する。彼の遺したものに、戦国大名の
分国法として有名な長曽我部元親百箇条がある。これは塵芥集や信玄家法と
並び称されている領国支配のために制定された法典である。
彼の後継ぎ盛親は関ヶ原の役で西軍に参加、敗戦後所領を没収されて
京都に住み、大阪の陣には大阪城にこもった。1615年落城の際、
逃れたが八幡山麓で捕らえられ京都六条河原で切られる。ここに22代で
正統は断絶したのです。」(新田英治)
私はこれを知って驚きました。信じられない思いも一方でありました。
長曽我部元親の岡豊城の位置を地図で調べてみました。
JR高知駅の東隣り南国市の北側にありました。近くに小倉・八幡という
村もあります。また、JR高知駅のすぐ北側には秦泉寺という地名が
ありますし、愛宕神社や愛宕山や愛宕町・秦南町があるではありませんか。
さらにその下を東西に流れる九万川は人工で整備されたように
伺えますし、架かる橋の名も愛宕大橋とあります。これらは紛れもなく
太秦を本拠地にしていた秦氏一族のなごりそのものです。
まるで作られたような話ではありませんか。幕末の伏見と土佐藩士の
関係や朝廷側と土佐藩の関係などにも思い馳せます。坂本竜馬などが
討幕に走ったことの背景にこうした積年の怨念も覚えます。
ともあれこれで一つのことが明らかになりました。
[参考ページ]
嵐山と秦氏のこと
秦氏の略歴のこと
[ 注釈 ]
(京都以外の人の為に)
・ 嵯峨野は愛宕山の山麓にある丘陵地。小倉山や愛宕神社もあります。
・ 八幡は国道一号線沿いに京都市を南下していき大阪府との境目にある所です。
・ 太秦はJR嵯峨嵐山駅から京都駅に向かう次の駅周辺です。
・ 桂川の治水工事を手がけることで秦氏の勢力は地歩を固めたといえます。
秦氏一族が行なった治水工事は桂川を手始めに吉備国でも痕跡を残しています。
嵯峨在住の角倉了以が大井川等の関東の河川工事に携わったことの背景には
秦氏の業績の魂が伺えます。
・ 伏見は太秦と同じく秦氏の本拠地になっていました。
・ 京都市内には数多く部落差別を受けた地区が点在していて概ね共通することは
秦氏と何らかの関わりのある所であることが想像できます。
[ 今後の展開及び調べること ]
(1) 足利尊氏との関係
(2) 秦河勝が四国高知に任ぜられたこと
(3) 平安遷都前後から秦氏の痕跡が記されなかった背景
(4) 長曽我部元親その人のこと
秦河勝の土佐国赴任の背景
644 年秦河勝の征伐: 大生部多が常世神と称して民を惑わすを悪み、
これを打つ。翌年「大化の改新」と年表にあるように、この時は京都に
居住していたと考えられる。
東国での征伐の話である。秦河勝がこれに関与したのは恐らく一族の者
からの要請があったと思われる。一族の中部・関東への進出盛んな頃である。
601年に広隆寺建立していることからすでに高齢であることは察せられる。
その上の任地背景としては、一つに651年頃からの新羅との関係険悪化が
原因と考えられる。
それは百済と新羅の紛争が起因している。以後新羅との険悪関係は9世紀
まで記載されている。秦氏は新羅出身でありしかも使節導者でもあった。
「大化の改新」以後は蝦夷討伐に国内では動いていく。討伐には膨大な軍費が
必要となる。秦氏の資金量は最盛であった。
そういう背景が土佐国任地ではないだろうか。さらに言えば、唐が
高句麗・百済へ侵略を開始し始めている情勢が当時にあって、北九州の
水城や城の築城に伺えるように西国の守りの理由も考えられる。
吉備では独自に鬼ノ城を築いている。
(白村江の大敗は663年のことである。)
勢力の極端な略奪をされたことは明らかである。
なお640年に天皇が伊予の温湯宮に療養として半年滞在していることを
考えると、いわゆる島流しのような左遷ではなかっただろう。
9世紀末の菅原道真が重なるが権力争いや政治などは今も昔も変らない。
足利尊氏との関係
足利尊氏が鎌倉幕府に反旗を翻した後すぐに西国方面の守護やそれに継ぐ
有力な地頭らに密書を送って討幕への参加を呼びかけていたという。
あるいは、後に九州へ逃れ再び大軍を率いて上京する折りに参画したと考えられる。
『太平記』を読めば名前が記載されているかもしれないが今は分かりません。
四国は直義が率いて上洛したとあるから行動を共にしたというのは足利一族と
共にしたと考えるべきかもしれない。伊予の大森彦七という豪勇の者は
同じく軍功ありて数ヶ所の領地をもらったと司馬氏の「街道をゆく」の
中で記されている。
1999.2.7「後醍醐天皇の時代、
元弘三(1333)年で、長宗我部信能は香宗我部秀頼とともに長岡郡の
乱暴を鎮めるよう足利尊氏に命じられています。その後は細川氏の家臣に
なったようです。」柴田さんより足利尊氏との関係を教えてもらいました。
元弘三(1333)年は鎌倉幕府に反旗を翻した年、天皇の綸旨を持たず
土地所有を主張して各地で混乱が生じていたから、
乱暴というのはその意味でしょう。