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嵐山文学


つれづれに【 残照 】


つれづれに【 残照 】

歴史物語の番外編ということで、古代史メモで予告しました奇妙な一致をお話します。
思い込みかもしれませんが気になることなので記録しておきます。
後になってなるほどとなればいいことですから・・・
とにかく思いつくままに綴ってみます。

(Y) 母方の先祖


母の父は養子であることを聞いていたが身元先の所在は不明のままであった。 M家に養子にきてM家の従姉と結婚したという。 身元先は偶然に知ることになった。かつて月読神社の境内であった所で、石榴の 樹がたわわに実る庭のある家であった。 この家にある石榴の樹については以前注目して画像にしてアップしていたので 聞かされた時には不思議な心地がしたものです。 秦氏との係りが最も濃い家系ということが分り母方の血が濃い顔立ちの私としては 不思議な縁の一端に漸く理解が及びましたが、もう一つ明らかにする手がかりを 調べてみたいと思って封印された唯一の形見である錆びた刀を隈なく見てみた。 何か刻印があるのではという期待は潰えた。 この項を書いてから、過去の事実を幾つか知った。 日誌に書いたことも含めてのことですが、江戸の末期に二人の兄弟が当家に養子として 迎えられたそうで、養子として子供を託した人物は御所にて勤務していた武士で あったという。理由は定かでなかった。 兄の方が本来当家の跡取になるのだが、彼は不祥事を起こしてしまった。その際に 隠密裏に事の発覚を留めたのがその武士であったという。兄は86歳まで生きた。 一方、弟は跡取になり、数年早く亡くなったことが過去帳から分る。兄の墓も 当家の墓地にあって、大切に扱うように言い伝えだけが残っていた。 弟には男子が二人いたが、28歳と20歳で続けて亡くなっている。明治16年の 頃です。彼らの妹が94歳の長寿を得たことを考えると、何らかの事情があったものと 推察したくなります。時代の気運が関与したものかと。 時代の気運として考えられることは、自由民権運動の余波で各地で暴発が起きたこと 位であって、畿内でも起きていた。 いつか書いてみたい歴史物語の素材ではあります。 (X) 地域(2)吉田という名称
祖母の里が吉田姓です。知る限りでは過去二世紀の間に当家の主は吉田家から妻を 三度迎えています。そうなる理由はあります。 当地には人工とされる中州があります。広さは甲子園球場二つ分位で、大半は公園ですが 支川沿いに十軒足らずの民家が一列に並んでいて、大半が吉田姓に関わっています。 対岸の臨川寺近くに角倉了以の屋敷があったのですが、彼の本姓が吉田です。彼の 治水事業の功績を考えれば、中州の地権があっても不思議ではないです。 つまり、中州に居住する吉田姓は何らかの縁在りし人々と推理できます。 当家も別宅が大正の頃まで一角にありました。隣が「畑」さん、左隣が「吉田」さん。 現在の中州の地権は京都市のはずです。 「畑」さん跡は、現在五木茶屋に、当家の跡地は錦茶屋になっています。 畑さんについて知る人は残念なことにおられないです。懇意にさせていただいた 当家の祖母も今は亡き人です。私の関心も遅かった。 この吉田姓の方は他に堤防沿いに数件ありました。今では多くの家が並んでいますが 昔はその数件だけでした。大悲閣の麓保津川沿いに、吉田という人が露店を今でも 営んでいて、司馬氏も「街道をゆく」の嵯峨編でその方の店で語ったことを書いている。 ただ、彼も会った老婆が吉田姓というのは知らなかった。老婆は無論知る由もない。 縁というのは不思議なものです。 角倉了以の遠祖は滋賀県犬上郡豊郷町吉田に住まいしていました。近江武士です。 吉田という集落の郷士というわけです。

(X) 地域(1)四国・松山〜西土佐辺り



七世紀、土佐に秦河勝が赴任したという言い伝えの確証はともかくとして
ゆかりの地名は至るところに残っています。

土佐幡多郡は既に述べていますが、今回松山に旅行することになり、観光地を
物色していて、幾つかの地名を見つけました。下図に書いてみました。



松山の南に土佐街道があります。伊予郡砥部町で東に辿り南下する道で三坂峠を
越えると上浮穴郡久方町になります。浮穴という名は大和高田市の橿原神宮寄りに
位置する地名で妻の実家のあったところです。
久方町には下畑野川があって嵯峨山という温泉地がありました。その西方に
桂ヶ森という山並みがある。その西の広田村を越えた中山町に秦皇山がある。
土佐街道をさらに南下しますと落合という分岐点があって美川村となりそこに
柳井川が貫いています。この柳井といういう地名は松山の対岸山口県にある柳井市
と何か関係があるのだろうか、実は若い頃にそこを郷里とする忘れ難い人がいます。

砥部町というところは古代集落があったらしく、砥石を産する地からその名がある
ともいう。砥部焼きの歴史は220年前からとされています。

喜多郡は喜多方、川内は仙台の川内などと通ずるのか、
今度の旅行で新たな知識が得られたらと思い馳せています。

(W) 追 記(2)家系特記(海部家ー籠神社宮司)



京都新聞朝刊一面に「日本人は何処へゆく」というシリーズ記事欄が2000年から
始まった。三回目の今日、古代メモでも触れた宮津市にある元伊勢籠神社の宮司家の
ことが書かれていました。海部家82代の家系のこと。

「神と人とが往来したという宮津市・天橋立の北側に、二千年以上の歴史を刻み続ける
元伊勢籠神社がある。海に面し、山を背後とするこの地は、渡来人の舟が着岸し、大陸の
先進文化を日本各地へ広めたとされる。古代丹後の海を支配した海人族の末裔、海部家
は、籠神社の宮司家として現在に至る。当主以外の者は見ることが許されなかった
「海部氏本系図」は1976年6月、国宝に指定され、翌年4月に一般公開された。
始祖の彦火明命から平安時代初期の当主までの直系が書きつづられている。
現宮司の海部光彦さんは82代にあたる。
「代々、命をかけて守ってきた系図だった。先代は公開するかを迷っていた。親しかった
歴史学者から『歴史学の研究を進めていくうえで、海部家の系図は貴重な史料になる』と
説得され、一般公開に踏み切った」と話す。
17世紀後半、「大日本史」を編纂していた徳川光圀の使者が「史料に使いたいので、
系図を差し出すように」と命じたが、「ご神体なので、系図はお渡しできない」と断った。
系図の内容が「日本書紀」や「古事記」と異なっていたためだった。
家人の安泰を保ち、代々受け継ぐ宮司職を全うするため、「世間から目立たない」ように
してきた。・・・1987年遺言により、今より二千年以上も前に造られたという日本最古の
伝世鏡が海部家に伝わることを公表した・・・」

戦前戦中軍部が主導権を握っていた頃、生命の危険を感じたという話は頷けると思った。

(W) 追 記(1)



今朝の新聞に郡司・郡家のことが書かれていて、そこに福島県いわき市の荒田目遺跡の事
が目に入った。荒木とは関係ないのですが、荒という字は最近気にしていた文字です。
嵐山の名の由来を先日近くの旅館従業員の方から聞かれて、「荒子山」からだよと答えた。
古くは「荒ス山」と呼ばれていたとある。荒スは松尾の旧名で書紀によると、五世紀末
任那へ派遣された阿閉臣事代(あべのことしろ)が壱岐国で「民地を以って、わが月読神
をまつれ」との神託を受け、帰京して歌(宇太)荒ス田を奉じたと記されていることから
荒ス田の地にある山から転じたものとされている。
いわき市に注ぐ夏井川の上流に小野町がある。いわき市には鉱泉が幾つかあって、照島は
海鵜の棲息地で有名です。嵐山や長良川の鵜飼は知られるところです。

自称ではありますが、藤沢周平氏の顔は似ていると思う。丹後由良・宮津出身の恩師の顔にも
似ている。藤沢周平氏は山形の酒田市の南にある鶴岡市の高坂という村の出身で村を流れる
川の名が青竜寺川という。私のホームページリンクの当初に何故か当地の方がいる。
それは余談ですが、藤沢周平氏評にある「虚無=断念が氏の著作の底流にあるということ」は
私も共感するところです。多分その感覚が「蒼」ではないかとふと思った。

(V) 人 々



初めて友を失ったのは小二の時でした。荒木という姓で海で溺れて亡くなった。
小学校の幼なじみにもう一人います。で調べてみましたら戦国期に攝津に荒木村重という武将が
います。彼の一族は織田方にあって武勲を挙げた後に謀反を企て篭城し敗れる。
その家臣団をみると、攝津池田城主や信濃守などのいわゆる古くからの豪族を祖先にしている。
そもそも攝津という淀川以北の地域は小国が割拠していた。何故かというとそれぞれの地域が
低いながら三方を山で囲われ残された一方は淀川という巨大な堀を有しているからと思う。
その為に古代からの豪族の子孫が長く支配されながらもまとめられることなく残ったのではないか。
その支配された歴史を辿れば何か類似したことが分るように思います。

中大兄皇子を調べたページに書かれていましたが、彼は倭人ではないという説があった。
結論からいうと百済の王の子孫であるという。天智天皇の記述は創作されているともいう。
大海人皇子もまた海人族系に深く関わっている。巫女や海女のルーツは済州島から
日本に伝わったと考えられていますので、日本海沿岸にまず海女のルーツはあったと
先日知りました。関心がどうしても朝鮮半島に向いてしまう。

小学生の頃の別れといえば、もう一人北朝鮮に帰った友がいます。高校生の頃に日本の
教科書を欲しいと頼まれ送ってから消息はありませんが、その彼に別れる時に、豊臣秀吉の
伝記本を渡したことを思い出しました。渡せない本をよくも与えたと今思う。その時は
読んでこれはいいと考えてのことではありました。

満州で生まれ育った人にも何故か好意を感じている。好意を抱いて出身を知るのですが。
満州から来た中国人留学生ともすぐ懇意になったことがあります。上海から来る人は
多いのですが馴染めないものがありました。これは相手もそうですから、単に私の好み
だけではないようです。もっとも惹かれるのはほんの一部ではあります。何かと考えても
説明できない感覚です。色彩の「蒼」なのかもしれません。

柳美里の小説も好きです。なんか好みの話しになってしまった。

(U) 家 系


過去帳というものが各家庭にありまして、これは祖先の亡くなった年月日を記載したものです。
寺の檀家という制度が地区に組まれていて、今でいえば自治会館でしょうか。いつから始まった
のかは調べていませんが、昔、少なくとも江戸時代には組まれていたと思います。
寺子屋などのように、地区の寺は住民の集会所を兼ねており、様々な会議が為されていました。
村には共同所有の山があり、農業を営む上での共同作業が年間行事とされていたので人が集う
会所が必要であった。寺も村の共同運営の一つでした。住職は給金を檀家廻りでもらう形です。
祖先の回忌が来ると各戸へ通知してお経を唱えるその為の記録簿です。
武士や貴族だけでなく庶民もまた家系なるものを保存してきたのです。

祖先を敬い、先祖は誰かがその家の象徴とされ、そこに信頼が置かれていました。
村八分などの所業などはそうしたものの現れといえます。農民一揆などが育んだ知恵でしょう。
その基盤は古代社会において既に税の徴収制度によって整えられたのです。家系もまた
そこから展開したものと考えられます。

我家の家紋は足利家縁の川田家の紋です。江戸時代に地区の寺が消失して1700年以前の
記録が残っていません。それ以降の記載帳の冒頭にある名前は「吉右衛門」これが最古の
名前です。代々庄屋というのは、元の住所が洛西の日当たりの良い河口堰から引入れる
用水路の入り口に近くそれに面した高台に位置することや、旧村一帯の共同墓地の最上部
の市内一望できる所に墓があることから想像できます。
ただ残念なことは、残っていたであろう過去の遺物を三代前の繋ぎの養子世主が全て
売り払ったり、処分する破目を招いた為に残らなかったことです。
同時にいわゆる言い伝えというものも途絶えてしまいました。私が何故先祖のことを
調べようとしているのか定かではありませんが、一つだけ意識できることは、幼児の折
たった一度しか見たことのない「白髪の老婆」の姿なんです。その面影を記憶していて
成人してから、祖母に尋ねたところ、その方が唯一の我家の血筋を持つ人だったということ
でした。祖父はその方の嫁ぎ先での子供で、財産を使い果たした三代前の養子世主を憂い
祖父を我家の養子に送り入れたとのことでした。その話が意識としてありました。

祖父は私が生まれる六年前に亡くなり、祖母も両親も家系については興味なく、何代目か
分からないが、武士の子供が当家に養子に入り今日に至るという話のみ聞かされています。
過去帳を見ましたが確かな証も見出せません。敢えて考え得るとすれば、冒頭にある
当主名の方でしょうか。庄屋でありながら、1700年以降類して1〜2歳未満の子供の
死亡が多いことが分かります。妻も2〜3人生涯持っている。これは妻に先立たれてのことです。
明治以降は一人です。それにしても過去帳でかなりの様子が分かるのは意外でした。

(T) 土 地



東北へ初めて行ったのは18歳の時で、バスケット部の地域優勝がならず丸坊主になって
一人旅を思いつき野宿用具抱えて夜行列車に乗り込みました。行き先は北海道。
とにかく熊の頻繁に出没する未開の地というフレーズに慄きつつ出発。
昼過ぎに途中下車したのが新潟の柏崎の海岸でした。二泊目は小学校の校庭隅。

次に訪れたのが21歳の頃、十和田湖近くに「わらび座」の集落がありまして興味本意に
三日間その宿坊にて座員との共同生活をさせてもらいました。

三度目は福島県にある喜多方市へ七年前車で行きました。柏崎から関越自動車道に入り
赤城山麓から日光・今市を経て東北自動車道に沿って白河・郡山そして喜多方に入りました。
帰りは山間のコースを南下して鬼怒川温泉を経て東部日光線沿いの道を南下し
埼玉と福島の境界近くで東北自動車道に入りました。

この三回です。西那須野も通りましたがそこが高野悦子さんの故郷であったと気づいたのは
高野論を綴ってからのことでした。いずれも準備なしで言わば発作的な行動でした。
何故衝動的に旅をするのか未だに合点がいきません。車の運転で言えば勘のままに方向を
定めて走るようなものです。免許を取得したのは遅くて、34歳の時でした。公害を撒いて
走る物に敢えて乗るなというのが理由でしたか。仕事で必要に迫られての取得でした。
当時は何かYAKEKUSO状態でして、原因は多々ありますが取得してすぐにマツダのコスモ
という車をたまたま中古で譲り受けることになり、YAKEKUSO状態で深夜乗り回していました。
総重量二トンであのエンジン音と振動感は誠に痛快でした。
伊勢と南紀と越前海岸は数十回行きました。伊賀上野・名張・琵琶湖湖西などのルートも
頻繁に通りました。当然仕事も十二分にしましたが、よく無茶をしたものです。
風土の違いを夜景と夜風で覚えたように思います。確かに時間的な制約の中での行動では
ありますが限られた一定の時間が身体で列島の一部を捉えさせたことは貴重なことでした。
身体で覚え身体で考えて過ごすことにその後取りつかれたものです。(なんか自叙伝めいた)

丹後半島は学生の頃よく訪れました。友人の幾人かがそこの出身だったこともありますが
それだけではなく、列車に揺られての車窓の風景は懐かしい愛着を持たせました。
総社や倉敷に惹かれたのも若い頃で、後に恩師となる教授は亡くなってからそこの出と
聞いて驚いたものでした。なんでも木材関係の仕事を代々なさっていたと聞きました。
私の息子は予定外に定めた受験で唯一受かったのが岡山でした。

滋賀についてはどこかで触れましたが、従兄弟の嫁ぎ先やお嫁さんの出身が滋賀県が多く
継体天皇ゆかりの地高島郡には二人嫁いでいます。亀岡の藤原一族の拠点で子孫の家に
嫁いでいる人もいます。これは誰かの強引な勧めと聞いています。
私が東京で親しくさせてもらっていた友人は高知県出身で生年月日が同じでした。
新婚時代に住んだ所が宝塚の売布神社、相手は奈良の二上山で決めました。土地の人です。
不思議です。なにも苦労して抽出しているわけではありません。身近な人を浮かべると
かようなことが指摘されるのです。角倉了以という人は遠く大井川まで何故河川事業に
関わったのか不思議でしたし、彼の一族と姻戚関係を幾度も持つ私の祖先も謎です。
謎というのは、誰に聞いても角倉了以との関係を知らないからです。藤原氏のこともです。
嵐山の歴史自体が最近まで調べられていなかったからですが、それもまた不思議です。
地元民ですら嵐山城があったことや嵐山という山の名前があることすら知らなかった位で
私も数年前までは、嵐山は山と付くが地名のことだと聞かれたら答えていたほどの無知でした。

こういう地域や風土・歴史への無知な状況は私どもだけではないと想像できます。一般に
言えばのことではあります。歴史を知ったところで生活の糧にはならないでしょうし
土地への苦い経験が積み重なれば、過去のことより今の繁栄なり穏やかさを見つめるのも
自然な思いかもしれないとも考えます。ただそんな中でも長い歴史を通してみれば
極めて数少ない人々によって古の因果なるものが何かの形で継承されてきていることも
確かなことだろうと考えます。土地というものが何かで結ばれているということを
今までの古代史メモなどで少しは理解していただけたと思いますし、私もおぼろげ
ながら空に描きうることができたと思っています。
来年はこれを踏まえて七・八世紀以降を個別に考察していきたいと考えているのです。
敢えて事細かくその真偽を穿つことをしなかったのは、学問上の研究ではなくて
私が考察したいのは人が歴史をいかに生活や生きる信条などに溶け込ませたてきたか
ということだからです。人々は厳密な真偽など知る由もないはずです。それぞれの
思い込みもしくは「因果」という得体の知れない観念で過ごしてきたと思います。
最近摘発されている宗教関連の出来事をみて、何故そんな行為を元信者という告発者が
してきたのかと理解できないでしょう。そういう人々が集まれば社会の一部が動く
ことも事実です。




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