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古代T古代U古代V古代W古代X古代Y古代Z古代[ 2001 古代への旅T 十七 話 2001.2.24 TOP 国東半島そして能登半島が今回のテーマです。 下記にあるように、いずれも石に関わりの深い地域です。 とりわけ、関氏の推理は興味深いです。 北部九州の中心筑紫平野へ攻めるには日田をまず制することでしょう。 境の山々には鬼とつく山や地名が残っています。 富山・新潟を制するには石川県能登半島をまず制すればよいでしょう。 そんなことを考えながら、空想の世界へ・・・ 吉備国と連携した大和の勢力は瀬戸内を通り愛媛に陣取る。 愛媛は昔より出雲国の及ぶ地域であったと思っています。 その国を国譲りの伝承通り大和勢は獲得したのだと。 出雲国を譲られたところで何ら得るところはないだろうと思います。 長旅は当時おそらく難題だっただろうし、その為には四国の愛媛に 長期に渡って滞在しただろうと考えます。 愛媛にも石動山と同じく、石鎚山があり山そのものが神様でした。 【参考】 ー石川県石動山ホームページよりー 名は体を表す如く、石動山は、石が動き、山が動く。まず最初に石が動いた。石動山縁起によると、 森羅万象(宇宙に存在する数限りない一切のもの)を司る三つの石のひとつ動字石(あとの二つは 朝字石・竹字石という。この三石の光により福智愛の三徳を生ずるといわれる)が天から降ってきた、 山が揺れ動いたと伝えられる。昔の人は、高い山には神様がいらっしゃると考えた。石動山にも石を 動かす男の神様がいらっしゃると信じられていた。最初は、山そのものが神様だった。 その後いつの頃からか社が建てられ石動彦神(いするぎひこのかみ)を祀った。伊須流岐比古神社が 建てられたのは、その後のことで、今から一千年以上前のことである。  古い石動山信仰に日本の仏教が結びつき(神仏習合)、神に奉仕する仏教徒らによって次第に 寺院の形が整えられていった。そこで、石動山衆徒は皇室の安泰を祈り、自ら修業に励み 「げんくらべ(僧や修験者が修行の程度を競い合うこと)」をし、分社を建立した。勢力は、 能登・加賀・越中から越後・佐渡・信濃・飛騨にまで及び、「いするぎ山伏」と呼ばれた。 最盛期といわれる中世には、360余りの院坊と3000人の衆徒を擁したと伝えられ、 京都の勧修寺を本山とする勅願所として石動山の名は天下に知れ渡った。 ー関氏大分日田を語るよりー 三世紀前半、つまり、邪馬台国から大和へ、という時代の節目に、この日田には大和の勢力が 進出していた。これは筆者の勝手な推理ではなく、考古学的に裏付けられていることだ。 瀬戸内海の制海権を確立した「大和」は、この日田の地にまで勢力圏をのばしていたのである。 地形的に、日田をとったものが九州を制することができるからだ。北部九州の中心筑紫平野には 筑後川を下れば一気に出られ、しかも日田は天然の要害で、西側からの攻撃にすこぶる強かった。 そしてこの地からは、後漢の王族しかもてなかったという金銀錯嵌珠龍文鉄鏡が出土している。 いったい、どのような人物が、このような宝物を持ち得たというのか。それは卑弥呼か、 はたまた大和の大王か・・・・  日田が邪馬台国に関わってくるのは、北部九州と大和の相克という視点が大切になってくるからだ。 おそらく、久留米から山門郡にかけての一帯を支配していた邪馬台国の卑弥 呼と、これを制圧すべく日田に遣わされた大和の王族── 金銀錯嵌珠龍文鉄鏡を持った 日の巫女と思われる───との戦いが、日田の盆地と久留米の高良山周辺で展開された・・・ ・・・そして、卑弥呼と敵対していた日田の「巫女」こそが、のちに卑弥呼の宗女として 邪馬台国を継承した「台与(とよ)」だったのではあるまいか。日田が筑紫(福岡県)の 文化圏経済圏にありながら大分県に組み込まれ、これが大分県の原型「豊国(とよのくに)」 からの伝統であったのは、大和からの勢力・・・しかもそれが「トヨ」で・・・・が日田におよび、 「トヨ」の名がそのまま国名になったからであろう。  このような推理は、まだ認知されていないが、日田周辺の発掘が進めば、いよいよもって、 邪馬台国と日田の関係が注目されるのにちがいないのだ。 十六 話 2001.2.21 TOP 古代から現代で共通することは、いわゆる民衆が統治され用いられるということでは ないかと思う。民俗学xxxとかいう掲示板で書かれていることを少し読んでみて 感じたことです。庶民の歴史を考察する時に、事実として認めてしまう傾向があって、 その残された風習なり風俗をさも大事な史実として扱う傾向に??です。 三面記事ばかりの週刊誌を隈なく読んでいる人と会話するような不快感でした。 学生時代に豪語していた人がいました。「世の中のことは、全て大小で成り立つ」 大小という形や量や程度は比較から成り立つものです。似たものや差の無視できる 場合については触れようとしない思考です。括ってしまうことを疑わない。 民衆を歴史からはずして考察することをついつい忘れてしまうのです。 確かに武力とか権威とかで動かされる時代が続いています。 自然環境と接するように人が織り成す時代やしくみに接してきたことを 考慮して判断していくことが常に大切なことです。 十五 話 2001.2.18 TOP 702年の豊前国(現大分県一帯)上三毛郡塔里戸籍には多くの秦部があるという。 一説には当地から京都松尾に移住して松尾秦氏が起きたという。 壱岐国と松尾神社の摂社月読神社の関連から豊前経由の移住説であろう。 六世紀に継体天皇による筑紫の平定の為、大分に軍事拠点を設けたとする のは私の考えです。その地に根付き帰還したと推理するのが自然です。 結果、伏見稲荷に次いで松尾神社を建立した。さらに長岡京遷都建設に加担した。 平安京には嵯峨野秦氏と賀茂氏が尽力したという説もあります。 高知県に移住したという秦川勝の末裔などを思い起こすと開拓者氏族の姿が浮かぶ。 今日における中央政界の動きや推移と経済界のそれとを考えると古代も同じなのかと 思えます。中臣氏は政治的に帰化人氏族から蓄財の権利を奪ったが、その活用においては 私腹と自己の権勢に向けた点で大いに異なる結果に導いたと思います。 十四 話 2001.2.18 TOP 岐阜県の羽島に仕事で頻繁に行きます。琵琶湖の東岸から関が原そして大垣と経由します。 小山があってさながらに奈良盆地の小山の風情と重なります。 時の天皇が近江と岐阜へのこだわりが少し分かった思いがしています。 大垣の北方に大野町と池田町があります。揖斐川町も加えてもいいですが のどかな田園です。共に百を越える円墳が六〜七世紀にかけて築造されているという。 その規模は播磨国や吉備国の市町村と同じです。円墳の数とその動員力から推定しうる兵力は 比例するものではないかと思い、時代の推移を思い巡らします。 人々は時代の流れと共に移動するものです。円墳の時代それは同族農業の象徴と捉えます。 古墳時代の後に来たものはなんだろう。うちづづく飢饉と天災は兼業農家のごとき様相を 呈してきたものと推理します。水運の良い地域へと移行していくのです。 紀伊の紀氏は瀬戸内航路を一つ勢力下に持っていたといいますし、藤原氏もそうです。 その後は政治力が武士の到来まで続くことになるのですが・・・ 十三 話 2001.2.12 TOP 王権は四〜五世紀代、濃尾平野に県を設置していたといいます。 大垣・岐阜市には丹羽県。伊勢湾に面した地域にアユチ(年魚市)県や 島田県。五世紀後半に台頭してきた連姓の尾張氏の本拠地は熱田神宮一帯です。 一説に、物部氏と同族であるとも。 東海地方最大の前方後円墳・断夫山古墳(五世紀末築造)が尾張氏の勢力を 示しているという。伊勢地方の海部氏を掌握して、王権の東征を担ったことだろう。 東海道の伊勢湾出口に桑名市がありますが、それに隣接して員弁郡と朝日町があり そこの歴史は近畿に劣らずあることに驚いたものです。 考えてみれば、日の出る東への関心は太陽信仰なんですね、これは現在の私にも あるようです。 伊勢・桑名そこへ抜ける直前に鈴鹿越えなる近江の出口がありますが そこに拠点を置くのは主に百済からの帰化人なんですね。 桑名の隣の朝日町にも河内からの帰化人が開拓しています。馬飼いを職とする 人々も派遣?されているようです。 何故東海地方の豪族は近畿圏へ自ら進出しなかったのだろうかと不思議に思う。 近衛兵に甘んじているのです。 彼等に隣接する民は帰化人だから、おそらく平和だったのだと思っています。 王権の中で勢力ある豪族の拠点から、はるかに離れていたし、直接的な紛争も 起きなかったのだろうと考えます。東に遠く進出する土地があることや、充分な 生活の糧が自給自足していたからでしょう。 十二 話 2001.2.12 TOP 宝塚の住民を救った大国主の姫はどこから来たのか、その道中はどこなのか、 天橋立がある宮津から由良川を遡り福知山そして丹波篠山それから先は武庫川 下って宝塚に来たのだろうと思った。 篠山市の地名由来を載せたページには次のようなことが書かれていました。 ー丹波篠山市のページより抜粋ー 丹波の山なみに周囲を囲まれた篠山盆地は、古くから「多紀郡」と呼ばれてきました。 「多紀郡」の名は奈良の都があった平城宮跡から出土した木簡(木片に墨で書かれたもの) の中に発見されています。 その木簡には、「多貴評」(たきのこおり)・「多紀郡」 という名が書かれておりました。すなわち大化の改新(645年)後、7世紀の後半には 篠山盆地から奈良の都へ、貢ぎ物や税金が届いていたことになります。 正倉院にある神亀3年(726年)の文書にも、「丹波前国多貴郡」と記されています。 「郡」という刻印のある土器の破片や、「御厨(みくりや)」と墨で書かれた土器の破片が 見つかっていることは、現在の郡家地区の周辺に「郡衙(ぐんが)」と呼ばれる役所が あったことが証明できそうです。さらに、古代の山陰道が通っていた証として、 「小野駅」の跡も残されています。 桑原という地名は桑を植え養蚕をしていたことに由来するといわれています。 一説には雄略天皇(5世紀後半のころの王)の使いによって桑が植えられたとも、 和泉式部の植樹ともいわれています。草山誌の一説に 「桑原の里に引くまゆひろひ置きて 君が八千代の衣糸にせん」という歌が残されています。 和泉式部の出生地として丹後が一説にあります。 丹波路の市場であり中継地として古くから集落を持っていたと思われます。 出雲の勢力と大和の勢力が交わった地域が攝津国ともいいますから 宝塚風土記にある伝承は真実味があるのかもしれません。 十一 話 2001.2.10 TOP 対外的に日本全土という捉え方は四世紀以降であると想像できます。 三世紀以前は九州という限られた区域であったというのが私の考えです。 ですから中国や朝鮮半島との交わりが不可欠な国は九州エリア内と考えます。 出雲や吉備は、交易という立場にあったといえます。同時にさらに東に位置する 大和や近江や越という区域との媒介を担っていたとします。 戦の始まりは武器の確保によって全土に及んでいったのでしょう。 鉄砲の伝来から普及を私達は歴史として知っています。 馬という機動力、舟という人や物資の輸送を伴って広がりました。 それにしても、稲作の合間になされたことであることは理解しておく必要があります。 小競り合いは古くよりあったでしょうが、国を治め、営み、拡大するという知恵は 外からもたらされた知恵であることは信じたいことです。まほろばの国という 縄文時代からの遺産は、戦国時代にしろ、武士の時代にしろ、平安時代でさえ 伺い知れるものだと思います。和をもってまず事に対処する姿勢は今日も残っています。 邪馬台国の時代に卑弥呼を立てて平安を保った歴史事実は、信じたいことです。 雄略天皇については、粗野な面が語られています。 おそらく、そういう粗暴な行為をせざるえない時代であったろうと 考えています。河内と奈良をまたがり政権が動揺していた時代に また、政権を支えていた雑多な地方豪族は統一後の内部固めに奔走していたと 考えられます。ヤマトタケルの東奔西走話はそういう時代の映しだろうと。 応神天皇以降の100年は軍事政権でしょう。小競り合いを治める程度の 寄り合い軍隊、やがて一兵卒の豪族の若者は財や土地を得て主となり 郷里に戻り幾ばくかの集合体を持つことになります。 いわゆる外人部隊なわけで、その長はいわゆる皇子たる人々であった。 天皇になれることは保証されず、使い捨てのような扱いだったに違いない。 雄略天皇の若かりし頃もそんな扱いを受けただろう。 他を押しのけて天皇になるには強引に他を抹殺しなければ自らも危うかった のではと想像します。その前後200年間に何が発展したのだろうか。 十 話 2001.2.6 TOP 当時の武力はどういうものだったのかと思う。 ともかく一撃では相手を倒せない時代です。数の論理が通っていたのだろうとは思う。 戦法というものも夜襲に近いものだろうし、一旦攻め込んだ土地で味方の住人を 住まわせて防御をしなくてはならない。いつ何時取り返しに攻められる立場にあるのだから。 同盟を結ぶことが最善策であるにちがいない。日本の戦国時代や平家・鎌倉時代を参考に しようと試みたことがあった。戦のきっかけは食糧難であろうし、大和政権の誕生は 帰化人から受けた君主制度のような支配の利点であったろう。 縄文時代の生活からは推測しかねる変化であるとは言えます。 一時的な平和は卑弥呼時代を想像すれば納得できますが、これとて続くものではない。 我こそはという人々が必ず現れてくる。 少なくとも三世紀の治安は占いによってもたらされた。 四世紀は同盟軍の大きさであろうし、同盟の成り立ちは婚姻関係や血族ですかね。 そのうち役割分担が同盟軍の中でなされ、支配国を広げていったものと思われる。 そして合議制のような政治の中枢が設置されていく。 権威付けは古墳の築造に象徴される。 でも、農民ですから、生活は多忙です。いかに多くの農耕開拓者を持っているかで 地方国の勢力は定まってくる。帰化人に着目するのはこの点です。彼等には固執する 意志が少ないはずです。 九 話 2001.2.4 TOP 建部という公職がかつてあった。 四世紀の時代、いわゆるヤマトタケル伝説の舞台となる時代です。 景行天皇から応神以前の頃のことであります。 地方豪族が建部に任ぜられたり、後の大宰府のように敵対する地方を 武力で牽制する任を得た砦といえましょう。一有力豪族として私設した 後の蘇我氏や阿部氏などの例もあったといいます。 大伴氏や物部氏のごどき官職とは別の組織でした。その建部は各地に 設置されていて、中でも名残として多いのが出雲・近江・吉備・尾張・常陸。 砦は武力を背景に統括・統治する最善策であるのかもしれません。 蝦夷地への侵略も柵という形でした。 地方勢力が高まるにつれ、各地における建部の機能は低下します。その結果として 熊襲や関東を北限とする蝦夷地の服従が崩壊し始めたのが応神朝以前の時代だろう。 応神朝以後五世紀末までは鉄の需要によって勢力図は左右される。鉄の国内生産を 掌握したのが継体天皇だと考えています。継体天皇は近江の軍兵を九州に投じて しまった為に国内の反乱は治めたものの、武力の均衡は変じた。天智天皇のように 若くしてその窮地に立っていたなら天皇主権を堅持したであろうが老いていた。 蘇我氏という私設軍団を持つ勢力の台頭を許すことになったのです。 ピラミッドと同様に巨大古墳築造は大いなる負担であったと捉えるべきです。 越の国から継体天皇が地力を発揮しえたのは勢力を蓄ええたからと思います。 八 話 2001.2.3 TOP 節分の豆まきや行事の報道がありました。当地の関西では、 ・京都府大江町 ・大阪府寝屋川市 ・千葉県成田市 の神社・寺が紹介されていました。鬼と関わりのある所として。 古代を旅する私としては、誠に懐かしく、興味ある所です。 詳しくは鬼の項を参照して下さい。 鬼面は今日時代の重なりとともに変化してきましたが 古代の様相は想像ですが、だいだら法師だろうと思ってます。 角は帽子とか兜の類であったろうと・・・ 牙については、邪鬼などからの想像物だろうと・・・ 成田でもそうですが「鬼は外・・」とは言わないそうです。 どうしてでしょう? 大江山の鬼にしても、鬼退治は著名ですが、伝承話では退治した後のこととして 鬼を大切に扱っています。已む無く退治せざるえなかったというのです。 成田闘争、飛行場建設に賛同した人々の側から言えば、反対農民はどう見たでしょう。 さらに、今日、成田の飛行場がなくてはならないものになった今、 反対農民を「鬼」とする人々はいないだろうか。 古代を旅する私には鬼とされたであろう一部古代人を重ねるのです。 七 話 2001.1.28 TOP 池田市の歴史を訪ねて、秦氏との関わりを改めて思う。 池田市は古来より京都府の亀岡市と通じる街道を持つ。妙見山にて 分かたれる形で位置している。 池田にいた藤原氏が池田氏を名乗っていたという13世紀の古文書があるという。 亀岡の森氏は藤原一族であると聞いたことがあって、秦氏が藤原姓に移行したという 話と重ねています。池田市に畑地区があり、古墳時代に秦氏や漢氏などの帰化人 集落があったといいます。 宝塚から池田市そして亀岡市さらには丹後への古道を思い描く。 それは古の宝塚風土記の中にも神話伝説として記されている。 古墳は池田から豊中へと移り弥生から古墳時代にかけての勢力者の拠点移動が あったといいます。歴史の流れとしては、やはり池田ー太秦という東行きだろうか。 長岡京や高槻と亀岡は古くから通じていますし、高槻に継体天皇の墓があるとする説も 風土と言う視点では頷けることです。 六 話 2001.1.15 TOP 薬師寺は天武天皇が創立したと伝えられている。下野に薬師寺別当が 創建されたのはどうしてなんだろう。もともと皇后の病気平癒祈願の為に 朝廷で保護されたものという。 聖武天皇時代に新都に創建されているが、時代的には蝦夷征伐の基点地 だから軍人の為の祈願所だったのか。 それとも、空海が茨城・房総まで仏教を広げたなごりなのか。 藤原氏の地元とされる地だから設けられたのか。 五 話 2001.1.7 TOP 道鏡について調べる機会を得ました。長岡京遷都の十五年前のこと。 和気清麻呂が40歳前後の頃です。彼は当時清廉潔白という評を得ていた。 備前の豪族の出で、長岡京遷都後の政界勢力を考えた時に、大隈左遷後の復活と 結びつく。秦氏勢力と附合すると推察します。 称徳天皇(女帝)没するや道鏡は下野薬師寺別当に左遷される。そして、 下野国より道鏡死去の報が届き庶人として葬られている。 実は下野薬師寺別当近くの御前山村の景観が京都嵐山に似ているという情報を きんたろうさんから頂きました。御前山村の地名が道鏡にちなんだものという 伝承があるというのです。この村の南に隣接して桂村があります。以前より 秦氏の進出推理で注目していた地域で、今回の道鏡調べでふと思い至ったことが あります。何故、下野薬師寺別当に左遷したのか。 「下野国より道鏡死去の報が届き庶人として葬られている。」これです。 つまり、速やかに庶人として葬る為に、この地を選んだというわけです。 宇佐八幡の届かない地なんですね。しかも私の推理では、秦氏勢力の中という ことです。西日本から九州まではよく左遷地にありますが宇佐八幡と何らかの 関わりがあります。すぐに抹殺するわけにもいかず、人知れず葬ったと推理しました。 桓武天皇や藤原種継のことを考えると未だ藤原氏台頭ならずの時代だと思うのです。 道鏡の出世の糸口は前世紀末に役行者が居住していたとされる葛城山での修行による とされている。禅を修め呪験力を身につけていたからです。 和気清麻呂の背後に藤原百川ありともいわれています。 古くから藤原一族や秦氏は神社で展開していたから、道鏡の君臨は双方の接近に 関与したと思われます。 四 話 2001.1.4 TOP 新潟県三島郡に出雲崎町があります。山本新左衛門と妻おのぶの長男として 良寛は1758年に生まれた。山本家は橘屋と称して出雲崎の名主と神職を世襲していた。 遠祖は橘諸兄という。橘諸兄の曾孫が山本中納言泰実。源平時代には、武将が出て 源義家の弟の臣であったという。十一世紀末に出雲崎に彼は土着し名主になった。 良寛の父は俳人として名を残した人で、60歳の時に、京都桂川で投身自殺した。 良寛38歳の時だといいます。良寛の弟もまた父と同じく桂川で投身自殺した。 橘諸兄という人も晩年は不運であった。桂川添いに怨念を振り払う社が今もある。 橘氏の後裔は各地にいるといわれる。 河内の楠木、和泉の和田氏、陸奥の芝田氏、下野の薬師寺・・・ 今もそうだが、権勢を得た氏族は各地に赴任して地域の権勢あるものと結びつく。 新興勢力は各時代に生じて時の権勢と結びつく。そこに権勢の平衡が壊れ没落という 事態が起きる。直接の原因はともかく、そうした事態の中で不幸は生じたのです。 「僧にあらず俗にあらず」という良寛は越佐の風土の中に今なお語り継がれている。 三 話 2001.1.3 TOP 大阪府北摂の池田市は酒と織物で有名です。秦氏が深く関わっている地域です。 池田の酒が全国に知られたのは、宣伝の為といわれています。その話を思い出しました。 酒と寺社の深い繋がりがその背景にあるのかもしれません。 池田に近い宝塚には松尾神社の末社があって、神社を創建したのは坂上田村麻呂の父です。 彼は武勲を上げることで松尾神社に感謝していたといいます。 山背大兄王の父は聖徳太子の為に郡山に法輪寺を建てたといわれています。 嵐山の法輪寺は(八世紀初め)行基によって、元明天皇の勅願により創建され、後、 空海の弟子道昌が829年に中興している。繋がりがありそうです。 行基はまた、越後の杜氏の里とも深く関わっています。(長岡・三島の項参照) 藤原鎌足と鎌倉の関わりを今日知りました。 吉田松陰が若い時に青森視察をしていたことも知りました。北の防備を視察する為とか。 と、思いつくままに記してみました。 二 話 2001.1.2 TOP なるほど、杜氏の技術は五世紀後半なんだ。百済から来た須須許理(すすこり)が名人という。 多分、近江商人発祥地の近江蒲郡あたりに居住を許された百済からの帰化人でしょう。 古代メモで触れた近江から松阪を経て福島に赴任した蒲生氏郷がいる。 彼は近江商人を引き連れ会津に入った。だから近江商人が東北・越後へ進出したのだ。 しかし歴史はそれだけでは動かない。「南部杜氏の里として花開く地にその種を播いたのは、 1662(寛文2)年ごろ盛岡に足を踏み入れた近江商人・小野権兵衛(おのごんべえ)だと 伝えられる。」というように、歴史を開くのは人の気力です。 小野権兵衛は小野一族の末裔ではないかと考えます。東北に小野の地名や伝承が残るのは 彼等が残した証であるのだろう。歴史を引き継いだということです。 奈良時代から平安時代に陸奥・出羽に赴任し良き仕事を為した先人があってのこと。 もっとも奥州藤原時代にも引き継がれていることでもあります。 何もないところに産まれることもありましょうが、歴史は継続されていくという考えは 確かなものと思っています。それを紐解いていくのは後世に生きるものの役目。 確かに蒲生氏郷や小野権兵衛の偉業たる比重は大きいですが、偉人伝説だけに留めては ならないと思います。見えないもの、埋もれた歴史というものを掘り起こすところに こそ歴史に血が通うのだと言いたいのです。 一 話 2001.1.1 TOP 杜氏を職にする人は全国を単身赴任で移り行く。今年元日の報道を見ていて知った。 岩手の南部町で南部杜氏たるA氏は遠路、愛媛県の伊予の酒造家に赴いていた。 京都の酒造業者は伏見に集まっている。豊臣時代の申し子ではあるが、一歩踏み込んで 考えてみるとそれだけではないように思った。 京都で酒造業者を集め取仕切る所がある。古くから酒の守り神として知られる 松尾神社がそうであります。松尾と伏見の共通点は秦氏です。 この考察の裏付けを調べてみたい。 ・「越後杜氏」 神社の境内に酒造りの守護神・松尾様が祀られていた。杜氏たちは故郷に帰っても、 いい酒を醸すことを神に祈っていたのだろうか。 杜氏は故郷でチームを縮成して越境していく。杜氏の右腕として頭、そして麹屋、 この三人が三役で、もと屋、釜屋、船頭の役人がおり、その下に「働き」という若い衆がつく。 杜氏はこの集団を統率する者として、酒造りの技術のみならず、人をまとめる力量も要求されたのだ。 かつて、このチームに参加できることは「男子が一人前になる条件」と、大変な名誉だったという。 威風堂々、杜氏を先頭に故郷を出立していく蔵人集団の姿が浮かぶ。 越後杜氏と一口に言うが、越後でもその出身地は限られている。刈羽杜氏の他に三島杜氏、 くびき杜氏、野積杜氏があるが、いずれも半年近く雪に埋もれる豪雪地帯で、耕作に不利な 山間丘陵地だったり、漁業が立ち行かなくなった土地だったりと古くから出稼ぎに依存しなければ ならない地域であった。 苦から「頼まれれば越後から米つきに」という言葉があったそうだ。 出稼ぎを余儀なくされた越後の人たちが、丹波や但馬の西国杜氏のもとで精米労働をしながら 酒造技術を習得し、やがて関東の風土に適した関東流を考案し「越後杜氏」としてその地位を 確保していく。時は宝暦年間(1751〜1763)から文化・文政期(1805〜1829)。   杜氏は酒造りの職人だ。だが普通の職人と違い、農民でもある。全く対照的で異質な二つの顔を、 一個の人間が生きている。そしてその腕一本の越境は、江戸時代から21世紀を目前にした 今まで続いているのだ。 信越本線柏崎駅から車で一時間ほど、その土地は、もはや海の匂いとも柏崎平野の佇まいとも 全く別個の、山間の静かな盆地だった。この鵜川盆地の一角に女谷という小さな集落がある。 小澤酒造の蔵人たちは代々、この女谷の出身者が多かったという。この辺りの杜氏は越後杜氏の中で、 刈羽杜氏と呼ばれている。 ・南部杜氏 南部藩(南部氏の旧領地の名称であり、青森・岩手・秋田三県にまたがっています。 特に盛岡市をいいます)出身の杜氏のことを言います。 「杜氏(とうじ)」とは、酒造家で酒を酒造する男たちの長(おさ)であり、酒つくりの 職人のことです。  酒つくりは、冬場の副業として始まりました。酒づくり農家に生まれた南部杜氏は、やがて、 その技術と真面目さを買われて、全国の酒蔵へ出稼ぎに行くようになりました。そして、 先人が残してくれた伝統と技と職人としての誇りを持ち続けながら、現在では、日本全国約400社もの 酒造会社に酒造りの長として、南部杜氏が活躍しています。 ・南部の砂金に魅かれた近江の商人たちが酒造りの種を播いた。 全国規模の経済が形づくられ、商業が飛躍的に発展した江戸時代、東北で採れる良質な 砂金に魅かれて遠方よりはるばる南部まで足をのばした人々がいた。 近江(おうみ){現在の滋賀県}商人と呼ばれる一団である。のちに南部杜氏の里として花開く地に その種を播いたのは、1662(寛文2)年ごろ盛岡に足を踏み入れた近江商人・小野権兵衛 (おのごんべえ)だと伝えられる。  権兵衛は、すでに近江商人の先駆けとして盛岡に定住していた村井新兵衛(むらいしんべえ)宅に 寄宿、盛岡周辺の村々を志和(しわ){現在の紫波町(しわちょう)}近辺まで行商に歩く。 都の質流れの古着や木綿などを商い、代わりに砂金、紅花、生糸などを江戸や上方に送っては 利益をあげた。やがて村井新兵衛の親類分となり「小野」から「村井」へと改姓、志和に土蔵を 建てて商売の本拠とし、「近江屋」と称する造り酒屋(質屋を兼業)を開業した。大阪から杜氏を 招いて1678(延宝6)年秋に売り出した新酒は、当時としては珍しい澄(す)み酒(清酒)。 濁(にご)り酒の味しか知らなかった南部の人たちは、関西流の仕込み酒にさぞかし目をみはり、 美酒に酔ったことだろう。  近江屋は大いに繁盛した。現在の紫波・稗貫(ひえぬき)一帯にいくつかの分家(出店)を 持つに至ると、みずからの蔵で造る酒だけでは足りず、不足分を付近の農家に委託して造らせる ようになった。農閉期の副業として下請け的な酒造りを担った農家を「引酒屋(ひきざかや)」と 呼ぶが、何軒もの農家から酒を引き取る近江屋では、その酒質を揃えるために、上方から招いた 専属杜氏に引酒屋を巡回指導させたようだ。こうして、澄み酒醸造技術が紫波・稗貫の近江屋周辺の 農村に普及した。  また、現在の稗貫郡石鳥谷町は、藩主の参勤交代の際、盛岡を発った一行の馬や荷物の 中継地でもあった。ここから参勤交代の陸尺(ろくしゃく){駕籠(かご)担ぎや荷物持ちの供} として江戸にのぼり、そのまま残って酒造りを学んだり、帰途に各地へ立ち寄って酒造りに従事して きた者もいたかもしれない。  雪深く寒冷な北上盆地の自然条件は、住む人々におのずから冬季農閑期の利用法を模索させた。 上方や江戸の酒造りの流儀に触れた南部の人々は、年月とともにそれを南部流として我が物とする。   ・古代の酒は女性が造った 遥かに遠い紀元前、大陸から稲作技術が伝わるのとほぼ同時に、私たちの祖先は米の酒を 飲みはじめたと想像できる。日本の酒に関する初めての記述は三世紀後半に編纂された中国の 「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」に現われ、曰(いわ)く、倭人は「人の性、酒を嗜む」 「歌舞飲酒をなす」。邪馬台国の人々は、どんな味の酒に酔っていたのだろうか。古代、酒造りは 女性の仕事だった。「杜氏」(とうじ)の語源にはいくつか説があるが、老母あるいは主婦の尊称 「刀自」から来たとするのも有力なひとつである。 五世紀の後半には、さまざまな技術をもつ職人が渡来するが、百済から来た須須許理(すすこり)は 酒造りの名人とされている。このころの酒は、いわゆる「口嚼(くちか)み酒」だった。つまり、 炊いた米を嚼んで壺に吐き溜めると、唾液中の酵素で糖化された米に空気中の酵母が増殖、 アルコール発酵が起こって出来る酒である。  現在の日本酒の特徴は米の糖化に麹を使用することだが、八世紀初めの「播磨風土記」に、 麹カビを使った最初の記録が残っている。  奈良時代から平安時代にかけて、宮中の祭祀に欠かせない酒を造る官営工房が設けられ、 「造酒司(さけのつかさ)」と呼ばれた。    ・日本の酒は寺の中で進化した 鎌倉幕府は禁酒政策をとった。1252年には酒の販売禁止令が出され、鎌倉の民家の酒甕は 自家用のひとつを残してすべて取り壊されたが、その数は三万数千にのぼったという。これは、 酒が早くも商品化し、酒造技術が民衆にかなり普及していたことを逆説的に物語っている。また、 13世紀に入ると貨幣経済が急速に発達し、京都を中心として商工業が隆盛、京都の公家たちは 造り酒屋を積極的に保護育成した。京都に都を置いた室町幕府は一転して造り酒屋を認知し、 保護する代わりに「酒屋役」という税を徴収した。現在まで連錦とつづく酒税徴収の始まりである。  15世紀から16世紀にかけて数々の技術革新を成した僧坊酒(そうぼうしゅ)(寺で造られた酒) は特筆に値する。寺院内での禁酒という戒律は13世紀末には有名無実化し、寺の中で半ば公然と 酒が造られはじめる。所有する荘園からの貢納米、境内の湧き水や井戸水、広い建物、豊富な頭脳と 労働力など、寺には格好な条件が揃っていた。寺での酒は自家用に止まらず商品へと発達、数々の 僧坊酒が絶品と嘔(うた)われた。三段仕込み、加熱殺菌、諸白(もろはく)(麹米・掛け米 いずれにも精白米を使った清酒)、大型の木桶の使用など、現在に繁がる酒造りの原形は、 中世の寺で確立されたと言っていい。    ・杜氏江戸の登場 日本の酒の歴史を、駆け足で、と言うより全力疾走で振り返ってきた。酒の商品化、 造りの大規模化など、酒造りの職能集団が登場する歴史的条件が時代とともに整ってきた ことがわかる。そして江戸時代、もうひとつの決定的な条件が加わった。すなわち、 寒造(かんづく)りである。  この時代に酒の寒造りが定着した背景は、有害な微生物の繁殖を抑えやすい寒い季節が 酒造に適しているという理由のほかに、江戸幕府の米政策があった。17世紀後半になってから、 幕府はたびたび新酒醸造停止令を発令し、米を集中的に大量に使用する酒造りを統制した。 米の品薄を防止し、米価を安定させるためである。特に秋の収穫前、端境(はざかい)期の 米不足を防ぐため、秋の彼岸以前の酒造が全面的に禁止された。  こうして「寒」の限られた期間での酒造りが制度として恒常的になり、農山漁村の生活サイクル と酒造がうまくかみ合うこととなった。仕込みの規模もいっそう大きくなり、蔵元は冬季の 集団的な働き手を求めた。これが日本各地の農山漁村に酒造りの技術集団とそのリーダーたる 杜氏が興った所以(ゆえん)である。 南部杜氏の発祥は、17世紀半ば、 小野権兵衛という名の近江商人が南部の地を訪れたことに始まる。 【 参照 】 南部杜氏 澤乃井物語

嵐山古代史嵐山文学

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