福井・鳥浜遺跡の縄文人の行方 自然は人類に生活環境を与えてくれるが奪うこともあるし、多大な犠牲を 要求することもある。縄文時代一万年という気の遠くなる年月の中程で、 福井県・三方湖周辺で定住し二千年近くの間青森と同様「まほろば」の地で 過ごしていた人々から自然が奪うことになったのです。 直前まで彼等は湖に注ぐ川のほとりで集落を作っていた。大洪水という説もある。 推理素材・ 5000 年前福井・三方湖畔の鳥浜から多くの縄文人が大移動したという。 ・ 京都・北白川遺跡の土器考察によって、5000 年前九州東北部から 近畿地方にかけて広い地域が一体となるような重要な変化が伺える。 ・ 滋賀・琵琶湖南端近くに粟津浜があります。その少し南には瀬田川が あって湖水はその川を流れ大阪湾にゆくのだが、5000年前にその粟津に 貝塚を遺した縄文人達がいたのです。 推理 推理素材を使って私は次のように調理してみたのです。 琵琶湖は地形的にみると、湖西と湖北から主に大量の水が注ぎ、 出口は湖南地域であります。 湖東は言わば湿地帯と今日においても広く水郷地帯となっています。 琵琶湖には二万年前から人々が過ごした形跡があり、すでに良好な場所は なかったものと考えられます。新天地といえば京都盆地です。 しかも北白川の丘陵地がもっとも安全だろうと思われます。 一番高い比叡山に登れば北白川に降りていくからです。 三方湖にあった山とほぼ同じ高さです。 次に土器から考えますと縄文前期6500〜5000年前の鳥浜遺跡で発掘された 土器は北白川下層式が主になっています。つまり交流があったということです。 間接にしろ知っていた。琵琶湖の縄文人に舟の木工技術を伝え、そして 北白川の縄文人にも伝えた。それは定住しながら 共に育んだと考えられます。それが二つ目の素材の原因と考えます。 舞鶴・浦入遺跡(舞鶴市千歳浦入湾)では紀元前3000年前の縄文時代 前期地層から最古級の十人は乗れる外洋用丸木舟が1998.2.4に 出土しています。瀬戸内海にそういう舟が行き交うのにそんなに時を 要しなかったと考えます。舟が広域を一体化する素因なのです。 これを書いている最中、今朝石川県能登半島の付け根にある富山湾岸で 鳥浜遺跡で発掘された舟より300年古い舟の櫂がほぼ原形で出土した という記事が出ていました。つまり広域交易が証明された訳です。 瀬戸内海や太平洋側でも同じではないかと思いますが出土がないから 推理はできない。 舟によって海の幸、弓矢などの木工品は内陸部へと交易される。 河川の積極的な活用が始まり人々は平野部へと進出し始めたのが 縄文中期なのです。
推理の裏付け追記 小野道風(894〜966)という書聖がいます。その筆は野蹟といわれ、 小野タカムラのひ孫にあたる。 小野タカムラは野狂といわれ、いずれも野人の性格を付けられた。 道風をまつる道風神社が志賀町小野と京都市北区杉坂道風町にある。 彼は木工頭から内蔵頭に任ぜられた。北山杉の生産の中心地が 小野十郷である。記録によれば平安の初めより杉の伐採監督を代々している。 小野タカムラと地蔵菩薩との縁の深さは梅原氏が書いている。 若狭街道への入口に桃源山地蔵院がありその近くに道風神社がセットと されていたという。木工品材のルーツということで注目しています。 地蔵菩薩は惟喬親王の念持仏でもある。
ここで思うことは、船舶の所有者(集団)=権力者(集団)ではないと いうことです。倭寇に始まり瀬戸内海を支配していた戦国期の集団あるいは スペイン・オランダの船団を考えれば理解できる。 広域交易が日本海でなされていた時代は各地域間の関係は平等であって 物品交換にしてもあれば良し無ければないで良しとされてきた。 河川を利用した交易が始まると、それまで陸上交易のみに依存 していた社会は様相が大きく変化していったのです。 人々は河川の交易によって土地を軽視し始めたのです。より良い条件の 土地を求める移住生活がまた始まったのです。数千年の時の流れは人口を 急激に増加させ、かってのように自由に定住する場所を確保し難く なっていました。たとえ得られても欲望の高まりによって食料や衣食住への 満足感が充たされず困難に遭うことが多くなったと考えられる。 土地及び生活必需品での諍いが顕著にみられるようになったものと 推察できます。 このようにして、その時代以降は古代から今日までの人々の諍いと 同じ状況が展開されていくのです。 継体天皇 さて、年代は古代に突然また移りますが、六世紀になってまるで系統の 異なる継体天皇が実権を握ることになりました。 彼は応神天皇五世孫彦主人王の子と伝える男大跡王といい、三国坂中井 (越前国坂井郡)の出とある。そもそも継体とは天子の位をつぐという 意味がある。どうも奇妙な命名です。 継体天皇についての資料は福井新聞で刊行したものを取り寄せ中です。 詳しくは後で触れるとして奈良・川内・琵琶湖ー京都の三つの地域で 大和国家の勢力バランスが古代において為されてきたように 最近考えるようになりました。川内の背後には大阪湾ー瀬戸内海があり、 琵琶湖ー京都は琵琶湖ー日本海があります。奈良は両者のニュウトラル地域 として位置づけられます。朝鮮半島情勢に過敏なまでに 反応を繰り返した時代を考えると奈良・川内が主流であることは明白ですが、 越前地域が日本海経由で越後・東北支配の拠点とされたなごりだけでは ないように考えています。つまり鳥浜遺跡の縄文人の子孫勢力を 結びつけてみようというのです。 ー 続く ー