嵐山文学


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丹後考Y ー四世紀の古墳例ー <富山県> 氷見市阿尾の「阿尾島田A1号墳」の発掘調査を行っている富山大人文学部考古学 研究室は1日、古墳の墳頂部から弓矢の矢じり部分である鉄鏃(てつぞく)1点が出土 したことを明らかにした。 同古墳は、古墳時代前期(3世紀後半−4世紀)に築造された前方後円墳の可能性が 高いと見られており、鉄鏃の出土はそれを裏付けるものという。同古墳からはこれまで、 土器などの遺物は全く見つかっていなかった。 同古墳は1999年11月、西井竜儀・富山考古学会副会長が発見。同研究室が今夏、 測量と発掘調査を行ったところ、全長70メートル前後の県内最大の前方後円墳である 可能性が高いことが分かった。ただ、直径約28メートルの円墳の可能性も残されている という。 <広島県> 広島市安佐南区緑井町で、広島大考古学研究室が続けていた約千七百年前の前方後円墳 「宇那木山第2号古墳」の発掘作業が、六日で終了した。石槨(せきかく)にふたをして 現状を保ち、今年九月か、来年春に再調査する。 見つかった竪穴式石槨の内部からは国産の銅鏡一枚と鉄製品四点が出土。しかし、 石槨やそれを囲む墓壙(ぼこう)の構造については発掘期間内に本格的調査ができなかった。 <茨城県> 朝倉・広瀬の地は、利根川と広瀬川にはさまれた市南部の前橋台地にあります。 この地の東を流れる広瀬川から桃木川にかけての低地は、利根川のかつての流路で、 朝倉・広瀬の歴史は、この旧利根川に大きく影響をうけながら展開されてきました。  この地が、歴史上大きな舞台となるのは、古墳時代になってからで、旧利根川河岸段丘 上に沿って造られた200近い数の古墳群がそれを物語っています。現在では、そのほとんどが 姿を消してしまいましたが、残された古墳はいずれも古代の群馬の歴史を知る上で貴重な ものとなっています。中でも天神山古墳は東国で最も古い前方後円墳といわれ、4世紀の築造 と考えられています。また、天神山古墳の北西にある八幡山古墳も同じころに造られたもの と思われ、全国でも珍しい大型の前方後方墳となっています。さらに、古墳時代初期の 住居跡も古墳の西方で発見されており、この地が古墳時代の初期に開かれ、有力な豪族の 支配下に置かれていたことがうかがえます。古墳の築造は6世紀にもさかんに行われ、 天川二子山古墳や金冠塚古墳などは、この時期に造られました。 全国に律令制が実施されると、上野国府に近いこの地には条里制がしかれ、ごばんの目の ような区画の水田が作られました。古代の道東山道や中世のあづま道は、この付近を通って いたともいわれます。 現在後円部の中心部分だけを残すこの古墳は、もともと全長129mの大前方後円墳でした。 発掘調査により銅鏡、銅鏃、剣、太刀、斧、玉など15種165点の副葬品が発見されました。 出土品は国の重要文化財に指定されています。調査結果から東国で最も古い古墳のグループ の一つと考えられ、4世紀中頃の築造と推定されています。 <石川県> 能美古墳群は、手取川左岸の扇状地に、東西約2km、南北約1.2kmの範囲に点在する五つの 独立丘陵にある古墳群の総称である。  丘陵は、西より寺井山・和田山・末寺山・秋常山・西山(辰口町)と並び各丘陵の小群を もって支群としている。  これまでに確認された古墳は、弥生墓3基、前方後円墳2基、前方後方墳4基、方墳2基、 円墳43基、あわせて55基を数えるが、未調査のまま消滅した古墳をあわせると、その数は 70〜80基を下らないものと推定される。  古墳群の造営期間は弥生時代末期から古墳時代後期の約4世紀間の長期に及び、この間、 ほぼ、方形周溝墓、方墳、前方後方墳、前方後円墳、円墳の順に継続して古墳が築かれて いる。全長約140mという北陸地方では突出した規模の大型前方後円墳の秋常山1号墳も その過程で築かれている。埋葬施設も、木棺直葬から粘土槨、粘土室へ変化し、 最後には切り石積み横穴式石室が出現している。  また、和田山5号墳の武器・武具類、和田山23号墳の須恵器群、西山9号墳の馬具類を はじめ、優秀でおびただしい量の副葬品が発掘されている。このような長期にわたる 継続的な古墳群の造営、多種多様の墳丘、埋葬施設、出土品は全国的にみても希有である。 秋常山古墳群(国指定史跡) 四世紀末に造られた県内最大の前方後円墳である。 墳丘規模は全長140m、後円部の高さが19mにもおよび、加賀全域の上に立つ大首長の 記念碑と推測される。 <福井県>松岡町・永平寺町 手繰ヶ城山古墳(てぐりがじょうやまこふん)  手繰ヶ城山古墳は昭和52年に国指定史蹟(しせき)になった、全長129mの前方後円墳で、 北陸第2位の規模の古墳です。  古墳には河原石や山石が葺(ふ)いてあり、古墳の周りに3重の埴輪列(はにわれつ)が めぐっていたと思われます。  この古墳はきれいに伐採され、前方後円墳の形がよく解ります。時期は4世紀中葉です。 <奈良県天理市> 波多子塚古墳 天理市萱生町ハタゴ 3世紀後半(4世紀前半?)の前方後円墳で全長144m、後方部南北幅約65m、 同東西幅約50m、前方部長約90m、同幅14m 東殿塚古墳 天理市中山町殿塚、大門 4世紀前後の前方後円墳で全長175m、後円部径82m、前方部幅70m <千葉県> 松尾町には、前方後円墳10基、円墳95基、方墳10基、横穴墓13基、計128基の古墳が 数えられるといわれています。 山武考古学研究所長平岡和夫先生は、山武郡市域に676基、この内の約40~50%が木戸川流域 を中心とする郡北台地に集中していると報告しています。この事実は、松尾町が古墳の 宝庫であることを物語っています。 これらの古墳の中で、前方後円墳は首長の墳墓として定形された古墳だと考えられ、 首長以外の人々には築造することが許されなかったものと考えられています。大堤に ある権現塚古墳が、山武地方における最大規模を誇る前方後円墳であることから、 松尾地域が武射国の政治・文化の中心の一つであったことが推察できると思います。 <東京都> 亀甲山古墳 前方後円墳 107 (前方部幅49・高7後円部φ66・高10) 大田区田園調布1 (多摩川台公園) 台地・公園 未発掘。4C末〜5C初。国史跡 <岐阜県各務原市> 那加 柄山古墳 柄山町 前方後円墳 82 54 葺石・埴輪 4世紀 <広島県> 中国地方で最古級 広島市安佐南区緑井町の丘陵上の古墳から、未盗掘の竪穴式石槨(せきかく)が広島大 考古学研究室の調査で三十一日までに見つかり、副葬の鏡や鉄製品も出土した。 発掘チームは約千七百年前の出現期の前方後円墳と推定。太田川流域では最古、 中国地方でも吉備などと並ぶ最古級の畿内型古墳の可能性がある、としている。 大和政権の影響を受けた有力首長が定説より数十年早く存在したことを示し、 瀬戸内海地方の古代史を見直すきっかけにもなりそうだ。  発掘現場は太田川を見下ろす標高百三十メートルにある「宇那木山第2号古墳」 (全長約四十メートル)。当時は太田川の河口に近かった。一九六〇年代に今回と 別の小さな石槨がここで発掘され、前方後円墳である可能性も指摘されていたが、 メーンの石槨は発見されなかった。  三月一日から古瀬清秀教授らが後円部を発掘、長さ三・八メートル、幅一・三メートル の石槨を発見した。床面から直径十センチの銅製の国産鏡、鉄製の槍(やり)、短剣、 工具のやりがんな、斧(おの)が出土した。  石槨は地元の弥生遺跡によく見られる幅が広い独特の造り。石槨を囲む墓壙(ぼこう)が 巨大で排水溝があるなど大和の古墳の特徴も備えている。こうした特徴や前方部では 弥生末期から古墳時代初期の「手焙(てあぶり)形土器」が出土したことから古瀬教授は 「西暦三百年前後、この地域で初めて築造された前方後円墳」とみる。  前方後円墳は大和勢力が地方に及ぶ象徴とされる。太田川流域では対岸の安佐北区の 中小田第1号古墳(四世紀中ごろ)が最古とされていた。  ただ、初期の前方後円墳は三角縁神獣鏡の出土が多いが、今回は「珠文鏡」と呼ばれる 国産鏡で報告例はないという。  三角縁神獣鏡以外の鏡の副葬あり得る  前方後円墳に詳しい石野博信・徳島文理大教授の話 瀬戸内海航路で太田川河口は 重要な拠点だったが、注目されていなかった。四世紀前半までの前方後円墳は地域色が 強く、三角縁神獣鏡以外の鏡を副葬していてもおかしくはない。 <香川県> 綾歌町快天山(かいてんざん)古墳の測量調査 文化財学科考古学部門では平成13年3月末から香川県綾歌町の快天山古墳の測量調査を おこなっています。この調査は綾歌町教育委員会の依頼を受けたものです。  快天山古墳は高松から国道32号線を西に進み、堤山の横を越えてまもなく、住吉神社の 西隣の国道に面した丘の上に位置します。道路からも林の間に古墳の姿を垣間見ることが 出来ます。  この古墳は西暦4世紀中頃(古墳時代前期後半)に築かれた前方後円墳で、 全長100m前後の巨大なものです。古墳時代全体を通しても香川県大川町にある 富田茶臼山古墳(墳長135m 5世紀前半)に次いで四国第二位の規模です。 4世紀代の古墳としては四国最大の前方後円墳となります。  1950年に行われた部分的な発掘調査で、刳抜式石棺3基とその中に収められた様々な 副葬品が確認され、全国的にも著名となりました。今回の調査では、古墳の正確な規模や 形を明らかにするための墳丘測量を予定しています。春休み中におこなった第一次調査 では古墳北半部(前方部側)の測量を終え、ゴールデンウイークに残りの部分(後円部側) の測量を行います。これまでの作業で古墳の表面を覆っていた葺石や、周囲に並べられて いた埴輪類の一部も確認しました。  今回の測量調査に先がけて、綾歌町教育委員会・綾歌町文化財保護協会のご努力で 古墳周辺の雑木類を切り開いて頂いていますので、現在は古墳の姿を観察しやすい 状態になっています。  快天山古墳の築かれた西暦4世紀中頃(古墳時代前期後半)は、地域社会の一つの 転換期と考えられます。県内でも3世紀中頃(古墳時代初頭)以来、前方後円墳を 築き続けてきた善通寺地域、高松地域や寒川地域で新たな前方後円墳が築かれなく なったり、規模が縮小する、あるいは古墳のスタイルが大きく変化するといった現象が 見られます。また逆にそれまで大形の前方後円墳がなかった地域に突然、大形の 前方後円墳が出現します。快天山古墳はそうした変化の典型例と考えられます。 <静岡県> 御厨古墳群(みくりやこふんぐん) 静岡県磐田市.  ,   天竜川の東岸の磐田原台地 東南部にあり、古墳時代前期の墳丘長110m の大型前方後円墳で豊富な副葬品が出土した 松林山古墳 神明山古墳 静岡大が発掘調査を進めている清水市袖師町の神明山一号墳(・・・長さ70メートル)が その形状や出土品などから、これまで県内最古とされていた磐田市の新豊院山古墳 (4世紀前期後半)より以前の前方後円墳である可能性が強まっている。”として ”東日本では数少ない最古段階の前方後円墳であり” ”東日本の古墳の形成過程を理解する上で極めて貴重な”と言っています。” 神明山古墳でも調査を行った結果、4世紀前期前半の前方後円墳の特徴とされる三味線の バチ型の前方部を確認した。また、同時期の古墳であることを裏付ける古式土師器・・・ なども多数出土。 (静大)滝沢助教授や清水市教委などによると、神明山一号墳は初現期(4世紀前期前半)の ヤマト王権の大王墳とされている奈良県の箸墓古墳の4分の1の規格で、形状も酷似している ことから当時の清水、静岡一帯を治めていた蘆原(いほはら)の国が、ヤマト王権から かなり重要視されていたあかしで、東国支配に向けた最前線としての位置付けがあった のではないかと推測している <愛知県> 白鳥塚古墳(名古屋市守山区大字上志段味)4世紀末  全長109m 前方部幅40m 高さ5m 後円部径71m 高さ14m   築かれた頃は古墳の頂部に長石が置かれていたが現在はない。この石が光り輝いていた ことから,「白鳥塚」の名がついたとも言われている。 青塚古墳(犬山市大字楽田)4世紀後半〜末  犬山市の中心から南へ6q,台地上に築かれた前方後円墳で,その形は畿内の影響 が強い。「王塚」「茶臼山」ともよばれており,4世紀中頃の古墳時代前期に造られた 尾張地域の古墳としては古い。  県下2位の規模で,全長123m,前方部62m,高さ7m,後円部径78m,高さ12m。 前方部に2段,後円部に3段のテラスがあり,各段の周りに埴輪が並べられていた。 この規模からすれば,尾張北部を支配していた盟主墳であり,かつてのこの地域は 畿内勢力が東国へ進出するための拠点だったとも考えられる。 愛知県北部の丘陵地,犬山市にある標高145mの山頂にある前方後方墳  3世紀初めに造られた古墳で,竪穴式の石室,割竹形の木棺,埴輪がないこと, 多くの副葬品などから尾張地域でも最も古い古墳と推測されている。  全長約78m 前方部幅約43m 高さ6m 後方部幅約47m 高さ8m    古墳内から三角縁神獣鏡や勾玉,太刀などが出土した。三角縁神獣鏡の出土は この地域の豪族が中央と深く結びついていたことを物語る。

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