嵐山文学   丹後考Y丹後T丹後U丹後V丹後W丹後X丹後Y丹後Z丹後[丹後\丹後]


フリートーク| 資料|

フリートーク(6) (64)2002.11.18 三柱の鳥居 鳥居というのは海辺とか河川のほとりに設けられたものという。上陸する際に そこをくぐって陸地へと上がる。航海は古代より人々にとっては拭い切れない 恐怖を伴う行為であったのだろう。海人ですら、神を奉って航海の安全祈願をしていた。 それは縄文時代から続いている。航海から帰還した人々には邪悪なものが宿っているから 上陸に際しては必ず神社に詣でて清めを受けるというのか。 鳥居は本来航海の到着地に向って建てられているとも聞く。 そういえば、近隣の松尾神社や梅津大社は桂川のほとりにある。蚕の社も天神川のほとりだ。 くぐるにもかかわらず、蚕の社には本来の鳥居の他に三柱の鳥居があることで知られる。 それは小石の群を囲む形で佇んでいるらしい。 鳥居の形式には幾つかありますが大きく二つに分かたれ、神明鳥居と中世以降それが発展した 明神鳥居という。三柱の鳥居は明神鳥居の形で装飾されたものと言えますが、蚕の社の形は どうか調べてみたいものです。鳥居も様様に利用されているのだろう。 また青森県の湾は陸地が陥没してできたそうで、その為かどうか、青森県の鳥居の密度は 比較して高いそうだ。どの程度高いのか、その理由も調べてみたくなった。 (63)2002.11.15 白山信仰の祖 白山信仰の創始者は越前国麻生津生まれの泰澄。 八世紀初めの頃で行基と白山の由来を語ったのが725年といわれる。 秋、学生の頃にワンゲル仲間と泊ったことがある。 中腹の山小屋にての露天風呂の記憶が鮮やかに残っています。 福井県の日野トンネルを抜け武生を過ぎ、さらに日野川を下りゆくと 前方に三尾野が見える。その一帯が浅水ないしは麻生津あそうずという その先九頭竜川に合流し福井の市街地へと入る。 白山は東南の彼方に位置している。 一説に泰澄が行基に白木の仏像製作を伝授したという。 京都・滋賀・奈良の境界付近にある岩間寺の奥深くにカツラの樹林があって、 見る人を圧倒するらしい。 泰澄も茲で霊木と出遭い千手観音を彫ったという。 桂と名のつく地名は多いがカツラが在る処は殆どないとか 洛西の山の道の街路樹として記憶にあったので一度カツラかどうか調べてみたい。 街路樹だから株立ち状のひこばえは刈り木されていることだろう。 異相を示す樹木で気に留めていた。 洛西の桂というのは彼の誕生地麻生津の地形と似ていたからで地図にて確認しました。 さて、継体天皇没後ほぼ百年に彼は生まれているのですが神仏習合思想の始まりが 越前であるとする説とともに気になる人物でした。 (参考)桂の木の画像はこちら (62)2002.8.26 弥生時代へ 琵琶湖の湖南地域に邪馬台国の主勢力があったとする推理があります。滋賀県の守山市・ 栗東市一帯で近江富士を望む地域です。野洲町・大岩山からは1〜2世紀に東海勢が 作った「三遠式」と近畿勢の「近畿式」銅鐸が混在するように24個出土している。 この推理を組み立てているのは次の点です。 紀元前三世紀...丹後・扇谷遺跡の鉄屑ー中国との交易が推定される 紀元前一世紀...丹後・奈具岡遺跡の玉類加工していた大規模集落             針などの鉄製工具も大量に出土している 紀元前後...若狭湾ー琵琶湖北西岸地域…塩の道として機能し鉄製品の交易ルートか           滋賀・熊野本遺跡の高地性集落で大量の鉄が出土           土器の交易と重なる鉄の交易ルートー琵琶湖の湖南経由か            紀元一世紀前半...丹後・三坂神社墳墓群の中国製太刀ー朝鮮半島では鉄の技術低い頃           当時、鉄の交易先は東海・北陸方面と考えられている 紀元1〜2世紀末...湖南の伊勢遺跡群などの都市ともいえる大集落群 (61)2002.8.16 御所市 義母の故郷を最近まで誤解していた。御所市というのは実に意外なことでした。 現在もなお三町の田畑を維持していると聞いてより興味を持った。 奈良盆地三大古墳群の一つである馬見古墳群の南端に位置する御所市掖上(ワキガミ)には 室見山古墳があって被葬者とされる葛城氏の本拠地でもあるという。 初対面であるにもかかわらず、身近な人のように感じた記憶が残っている為に、余計 身を乗り出して話に聞き入った。 いつの頃からか、彼女の実家では富山の薬売りを副業として営んでいたという。現在は 薬の提供元は兵庫などへと転じているそうですが、長く富山から仕入れていたという。 奈良と富山を結ぶ関係に及ぶ話ではないけれど、少しロマンを覚えた。 二上山で結ばれた私達夫婦にとって、義母の故郷が御所市であることは少なからず 無視できないことであると思った。 (60)2002.8.4 早良平野から吉野ヶ里遺跡 室見川を遡り飯盛山辺りから東の支流を上ると源流に近づく。そこには宇賀神社と 大山祇神社があります。峠をさらに越えて東に進むと那珂川町に至り間もなく那珂川町 の大山祇神社に遭遇する。さらに那珂川の支流から本流へ進み、本流を遡る。 ちなみに二つの支流間はほぼ一キロです。 しばらくすると、山田村の中にある松尾橋、妙見神社、北畑があり越えると分岐点となる。 南畑に向うか太宰府に向うかの分岐点で、吉野ヶ里遺跡へは多分大宰府に向って大きく迂回 する道であったと思った。吉野ヶ里は南に開かれている (本日のメモ) ・大山咋神は大山祇神の曾孫でともに山に関わる神であり酒神でもある。 ・日本海沿岸の縄文遺跡 鳥浜、石川県のチカモリ・真脇、新潟県の藤橋・馬高、富山県の不動堂・・ ・北但馬の古墳特性から天日槍伝説を支えた人々の様相 ・隠岐の航海民集団が大和朝廷の支配と深い関わりを持つ ・出雲人からみた越の意味 ・黒潮の速さは毎時4〜6km ・土師氏は出雲氏と同族である ・和田山町の池田古墳は但馬最大の前方後円墳(136m)で築造は五世紀前半 (59)2002.8.3 物部氏のルーツ 葛城氏や平群氏などの古代豪族が一時の政権交代劇で滅んでしまう中で、連姓の物部氏は 七転び八起きの氏族であることを考える。結論からいえば政権の元に根拠地を置くものの その勢力の背景となる地が広範囲に置いていたことだろう。 物部氏のルーツは遠賀川流域を始め各地にあると説が別れる。物部氏ゆかりの神社も全国に 及んでいるほどで実に捉え難い氏族です。 奈良桜井近郊の武器庫とされる石上神社周辺を本拠にしたのは雄略没後とされ、それ以前の ことで定説になるのは河内国である。では何処から河内に入ったのか、それを推理する上で 物部氏ゆかりの神社の多くある地域を挙げると丹後・但馬・播磨・福岡です。福岡を除く 地域は隣接したエリアでそれを一つに考えると抜きん出て多いことになる。 四世紀末〜五世紀初めに築造された前方後円墳が明石の海岸にあります。五色塚古墳といい 全長194mで墳丘は葺き石で覆われていた。河内で巨大古墳が築かれていた頃であります。 同じ頃に先に掲げた和田山で少し遅れて武人の王墓なる巨大円墳が築造されています。 今一つこの時期は丹後における巨大古墳築造が途切れる時期でもあります。 物部氏だけが出雲国と関わる氏族だと文献に書かれていた事を思い出しましたが、連ねて 考えますと五色塚古墳の被葬者は物部氏の当時の長ではないかと推理できないか。 遠賀川は早良平野に隣接する地域であり遠洋航海ができる準構造船の存在は四世紀初め とされる出石町袴狭(はかざ)遺跡から発掘された線刻板に描かれた船団図や 丹後のニゴレ古墳の埋葬品で五世紀初め以前と示されています。 また、大阪・久宝寺遺跡で出土した準構造船の一部は同じく出土した布留式土器や 庄内式土器の実年代から遅くとも四世紀までのものと考えられる。 (58)2002.8.1 兵庫・山東町3 徐福の渡航ルートは朝鮮半島の西岸を南下して北九州に至るのが妥当なルートという。 壱岐国において広大な平野が弥生時代に整備されていたことは私の古代観を修正した。 よく似た驚きは但馬・山東町の柿坪遺跡であった。古墳時代を通して営まれたとされる 大規模集落が日本列島の臍といえる山間部にあったことでした。 物流が頻繁に継続してなされなければありえないことであると考えた。同じ事は壱岐国の 整備においてもいえます。 そんなことを思い描いていた折に、柿坪遺跡の西方三キロの和田町筒江にある茶すり山古墳 の発掘調査結果が示された。従来65mの円墳と思われていたが90m近くと判明ししかも 未盗堀墳であり、細部において埋葬品が発掘された。日本でこれまで発掘された円墳中の 最大級の古墳になります。(埼玉古墳群の丸墓山古墳105mなどがある) 五世紀始めの築造と考えられ、被葬者の周囲から鉄剣など17点の武人らしい出土品が 見つかった。大和の王墓で発掘された鉄器の数に相当するという。 1992年の自動車道建設に伴う発見遺跡であったらしく、この他にもまだまだ各地に 埋もれた遺跡はその出番を待っているようです。 (57)2002.7.28 丹後考一年 一年前に「丹後の古代再考」という論考が京都新聞に連載されてから綴り始めた「丹後考」 ですが、壱岐・原の辻遺跡の発掘で北九州と丹後の接点が「翡翠」によって示された。 壱岐・原の辻遺跡とほぼ同時代の王墓である福岡市早良平野にある吉武高木遺跡で 糸魚川産の翡翠が甕棺の中から見つかっている。 埋葬者にとっての貴重品である翡翠が交易の対象物として少なくとも五世紀近く 君臨していたことを知る。改めて大和政権の富山侵攻目的の切実さを知る。 まだまだ私にとっての埋もれた歴史はあるんだと思った。 インターネットによって集めた知識の数々です。無論書物に頼ることも多いですが 興味の高い時期に即時に調べられる効果は書物では得られない。 昨今、著作権問題が各方面で過敏になりつつあります。日経新聞でもこのほど新聞記事 利用に厳しい制約を課するほどです。確かに公の記事ながら、記事にするまでの並々ならぬ 調査とその編集の労を思えば当然の事です。しかしながら、そうした文化の受容を発展して いくことへの不自由さを課することは「ニュース」の使命からはずれるのではないか。 文章検閲に自ら奔走する余りにいつしか興味を喪失しかねることにもなりかねない。 思索の自由はホームページに与えてもらいたいものです。 (56)2002.7.25 壱岐・原の辻遺跡 壱岐・原の辻遺跡にて多紐細文鏡の一部と細形銅剣の破片が墓域から発掘され、 「国内最古級の王墓が存在した可能性が高い」と発表された。 これまで最古の王墓とされた遺跡は福岡市の早良平野南東部の吉武高木遺跡で そこでは多紐細文鏡と細形銅剣がほとんど原型のまま発掘されている。 この多紐細文鏡は朝鮮半島製とされており、紀元前三世紀〜前二世紀のものと 考えられていることから王墓築造時期の推定がなされている。 原の辻遺跡の規模は100haで今回発掘調査されたのは900平方mに過ぎず 王墓の特定はできていない。 これまでに興味ある発掘物は次のものです。 ・弥生中期後半の三重連の甕棺墓の下甕に「船」と「鯨」が線刻された「捕鯨線刻 絵画土器」が検出され、「鯨」が2頭と「船」が1艘線刻されており、土器の表面と 内面が赤く着色された祭祀用土器とみられることから捕鯨の際の安全と豊漁を祈願した のではないかとされる。 ・弥生後期から古墳前期の川の跡から出土した鍛鉄製の金鎚で、朝鮮半島製。 これまで5世紀頃の古墳時代のものが最古とされていましたので、この出土例が 日本最古となる。また同じ場所から、鉄製品の素材である板状鉄斧や鉄斧・鉄のみなど 多くの鉄製品が出土していることから鍛冶工房があった可能性もうかがえます。 早良平野についてはこの前資料館に訪れた時に遺跡分布図をコピーしたが、こちらも 縄文時代より平野部で定住生活が継続してなされている。 壱岐から佐賀県の北部海岸までの距離は琵琶湖横断距離とほぼ同じです。 早良平野と壱岐は同じ緯度でもある。 (55)2002.7.22 群馬県の古墳3 前頁に掲げた群馬県にある四世紀代築造とみなされている 古墳の埋蔵品から伺える興味ある事実の一つに、朝鮮半島から渡来した人々の痕跡がある。 丹後・畿内・九州の地であれば疑い無く認め納得することが、当地群馬では疑う。 確かに気の遠くなる時があるのだけれど、やはり直感としては納得できないものです。 仮説として先に伝達及び渡来ルートを立ててみたのだが・・・。 富山と新潟の境を拠点とした翡翠生産地への関心は畿内及び西日本の勢力に宿った。 翡翠の前は黒曜石であったという。長野地方が黒曜石の産地として知られていた。 また、鉱石の採掘や発見においては渡来人の工人が不可欠でもあったし、同時に 鉄鉱石の鉱脈を得ることも大いに関心を深くしたようです。 地図を見る上でその距離感を補足するものとして馬と帆船の存在があります。 また長い道中における数知れない安全かつ協力的な中継地として東日本は縄文時代に 培われたまほろばの地という平穏な環境が整っていたと考えます。まほろばは渡来人 にとっても願ってもない環境であった。 さて、群馬への別のルートとして一つに千葉がある。 千葉県市原市国分寺台に神門(ごうど)があって、三基の前方後円墳を持つ。その 築造時期の最古は三世紀中頃とみなされている。規模は40〜50m前後という。 群馬太田市までは利根川を遡ることで達する。 もう一つのルートは相模です。海岸近くの平塚市に真土大塚山古墳、逗子に長柄桜山 古墳(90mと89m)、川崎市に白山古墳(87m)があり、いずれも四世紀後半の 築造とされています。真土大塚山古墳は前方後方墳で規模は跡形なく不明ですが、 岡山車塚と京都大塚山古墳で発掘された同型の銅鏡が見つかっている。 築造時期から考えれば神門古墳の形の影響と推理できます。

嵐山古代史嵐山文学
[PR]三井住友海上きらめき生命:医療保険のご案内と資料請求はこちらから