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丹後考Y
フリートーク(6)
(54)2002.7.21 群馬県の古墳2
富岡市で古墳初期とされる古墳があります。四世紀代に築造されたものらしい。
畿内の勢力と関わる埋葬品から群馬の西地区との関わりが示されているものと思われる。
東海ー相模経由と信濃ー相模経由あるいは茨城からの経由も考察すべきではあるけれど
当面のルートは日本海沿岸ー上越市ー長野ー群馬西と仮定してみたい。
四世紀中頃に長野では中野市・長野市・更埴市で古墳が築造されている。長野市・更埴市の
古墳は前方後円墳で黒曜石の産地として日本海沿岸ではよく知られた地域であっただろう。
群馬は馬の官牧として後世まで位置付けられた地域で、輸送や伝達のルートとして長野ー群馬
間は近隣と捉えられる。
日本海沿岸からの情報は丹後や福井の豪族によって畿内にもたらされたと推理できます。
上越にある裏山遺跡は弥生時代後期の高地性集落の形態を残す遺跡で倭国大乱と結びつけた
書物も刊行されている。丹後考の冒頭に掲げた富山における大和政権進出は、その後新潟に
及びやがて交易や同盟関係を結びつつ、その文化の伝達を長野・群馬に成したと考えられる。
(53)2002.7.19 群馬県の古墳1
円墳を焦点にして各地の古墳を見るようになった。
群馬県では舟型石棺の登場は六世紀以降である。その前はと調べてみました。
それと関東の勢力が今一つ歴史の中で捉えきれてないのでこの際調べてみたくなった。
実に古墳の数が多いのです。ともかく一部紹介します。
(参照ー群馬県埋蔵文化財研究所資料より)
朝倉II号墳ー4世紀前半ー円墳23mー前橋市朝倉町
文珠山古墳ー4世紀前半ー円墳ー前橋市山王町
前橋天神山古墳ー4世紀の中葉ー前方後円墳126mー前橋市広瀬町
倉賀野古墳群ー4世紀代以降ー大山古墳59.4m円墳他300基ー高崎市倉賀野町
北山茶臼山西古墳ー4世紀後半ー前方後方墳30mー富岡市南後箇
寺山古墳ー4世紀代ー前方後方墳60mー太田市太田
片山1号古墳ー4世紀末ー前方後円墳ー多野郡吉井町片山
北山茶臼山古墳ー古墳時代初頭ー円墳40mー富岡市南後箇
赤城塚古墳ー古墳時代前期ー円墳30mー邑楽郡板倉町西岡
阿曽岡・権現堂遺跡ー古墳時代前期ー2基前方後方墳40mー富岡市宇田字阿曽岡
川井古墳群ー古墳時代前期ー11基円墳10mー佐波郡玉村町川井
下芝谷ツ古墳ー古墳時代前期ー方墳20mー群馬郡箕郷町下芝
頼母子古墳ー古墳時代前期ー墳形不明ー太田市牛沢町
元島名将軍塚古墳ー古墳時代前期ー前方後方墳96mー高崎市元島名町
矢場川古墳群ー古墳時代前期ー90基前方後円墳・円墳ー太田市矢場、足利市藤本町
浅間山古墳ー5世紀初頭ー前方後円墳174mー倉賀野古墳群
朝子塚古墳ー5世紀初頭ー前方後円墳123.5mー太田市牛沢町
天王塚古墳ー5世紀初頭ー前方後円墳76mー甘楽郡甘楽町福島
大鶴巻古墳ー5世紀前半ー前方後円墳123mー倉賀野古墳群
赤堀茶臼山古墳ー5世紀前半ー前方後円墳62.1mー佐波郡赤堀町今井字毒島
三島塚古墳ー5世紀前半ー円墳約60mー高崎市石原町葭田
峰岸山古墳群ー古墳時代中期−後期ー前方後円墳6基円墳49基ー佐波郡赤堀町
お富士山古墳ー5世紀中葉ー前方後円墳125mー伊勢崎市安堀町
天神山古墳ー5世紀中ー前方後円墳210mー太田市内ケ島町
米沢二ツ山古墳ー5世紀中ー前方後円墳74mー太田市米沢字西
遠見山古墳(総社古墳群)ー5世紀後半ー前方後円墳70mー前橋市総社町
不動山古墳ー5世紀後半ー前方後円墳94mー高崎市綿貫町
白藤古墳群ー5世紀後半ー円墳43基10〜20mー勢多郡粕川村膳
上並榎稲荷山古墳ー5世紀後半ー前方後円墳121.7mー高崎市上並榎町
小鶴巻古墳ー5世紀後半ー前方後円墳87.5mー倉賀野古墳群
剣崎長瀞西古墳ー5世紀後半ー円墳25mー高崎市剣崎町
古海松塚古墳群ー5世紀第3四半期〜6世紀末ー帆立貝式古墳39m他ー邑楽郡大泉町古海
鏡餅山古墳ー5世紀代ー円墳60mー倉賀野古墳群
成塚古墳群ー古墳時代後期ー円墳20mー太田市成塚町
秋塚古墳群ー古墳時代後期ー20基20m円墳ー沼田市秋塚町字前原
金冠塚古墳ー古墳時代後期ー前方後円墳56mー前橋市山王町
芝宮古墳群ー古墳時代後期ー円墳10〜17mー富岡市富岡字芝宮
鳥崇神社古墳ー5世紀末ー前方後円墳約70mー太田市鳥山中町
三枚橋南古墳群ー6世紀前後ー円墳9基ー太田市大島町
上芝古墳ー6世紀前葉ー帆立貝式古墳15mー群馬郡箕郷町上芝
安坪古墳群ー6世紀〜7世紀ー40基円墳10〜20ー多野郡吉井町長根
筑波山古墳ー6世紀後半ー前方後円墳53.5mー邑楽郡板倉町岩田
観音山古墳ー6世紀末ー前方後円墳97.2mー高崎市綿貫町字観音山
漆山古墳ー6世紀末ー前方後円墳61mー倉賀野古墳群
二子山古墳(総社古墳群)ー6世紀末ー前方後円墳90mー前橋市総社町
愛宕山古墳(総社古墳群)ー7世紀中ー方墳56mー前橋市総社町
月田古墳群ー古墳時代後期末ー3基前方後円墳と30基円墳ー勢多郡粕川村月田
天川二子山古墳ー古墳時代ー前方後円墳104mー前橋市文京町
天神二子古墳(高根古墳群)ー古墳時代ー前方後円墳58mー館林市高根町
塚廻り古墳群ー古墳時代ー前方後円墳22〜26mー太田市龍舞
鶴山古墳ー古墳時代ー前方後円墳95mー太田市鳥山町
(後ほど整理)
資料館で半日、関東の古墳時代を調べてきましたが、到底まとめられないほどの
状況でした。北関東は東北と同様に、弥生時代に戦があったとする確かな痕跡が無く
南関東や長野はあったかどうかわからない地域だという書かれた論文がありました。
北九州から伊勢湾沿岸にかけての地域は戦の痕跡がある地域で書かれていた。
高地性集落や環濠や逆さ杭などの要素を細かく調べた結果のようだ。
また、興味を覚えた研究として、銅鏡の同範つまり同型資料がありました。
例えば、四世紀初めの築造とされる前橋天神山古墳の埋葬銅鏡が宮崎持田古墳や鳥取社古墳
と同型であるとか、群馬北山茶臼山古墳のものが岡山車塚古墳や滋賀大岩山古墳のものと
同型であるという。
このように最近は、日本武尊の東征・熊襲征伐の再検討など併せて3〜4世紀に着目してます。
(52)2002.7.17 京都市西京区の古墳2
円墳(径約10m・高さ約3m)43基が点在ー西芳寺古墳群ー後期
円墳(径10m・高0.5m)ー上ノ山古墳ー後期
円墳(径約11m・高さ約2m)ー大枝神社古墳ー後期
円墳25基(墳丘径は13m級と20m級に大別できる)ー大枝山古墳群ー後期
これ以外に単独で30〜60mの円墳が点在する。
この円墳の多さは何を語っているのだろうか。
同じような疑問は以前、宮崎県にある西都原古墳群を知った折に抱いたことがあった。
東西2.6Km、南北4.2Kmにおよぶ台地上に、4〜7世紀に造られた大小300を越える
古墳が点在している。
西都原の円墳は墳径が約2〜5mと小さいものの生活様式としては類似したものです。
西京区以外に伏見区でも同様の古墳群がありました。
「387 年 秦氏の祖先君主弓月君、120県の人民をひきいて来朝する」という記述が
気になっていて、この県なる毎に円墳が築かれたのではないかとまず思った。
つまり、日本列島固有の墓ではなく朝鮮半島での様式であろうと。
少し話は変わりますが、前方後円墳に埋葬される石棺材は五世紀中頃までは兵庫竜山産で
葛城氏が滅んでから熊本産の石が六世紀中頃まで用いられたといいます。
菊地川流域産そして宇土産と移るそうです。近畿へのルートは定かではないですが
宇土半島から西都原までの陸上運搬は不可能ではないし、鹿児島・指宿の産鉄を思えば
南航路も考えうることです。熊本の石棺材は吉備でも用いられているのです。
福井だけは地元産に固執しているようです。
(51)2002.7.16 京都市西京区の古墳1
古墳前期の古墳として、私の地元をここで初めて取上げてみたいです。
京都市の古代についても、随分ご無沙汰していましたが、暫く述べていきたいです。
京都市埋蔵文化財研究所では各区毎に遺跡データを公表しています。その中から
古墳時代の遺跡を抜粋してみました。資料ー西京区の遺跡
そもそも京都盆地における古人の営みは北白川界隈において、縄文時代から弥生時代にかけて
その痕跡が見出されています。弥生時代になって漸くその痕跡は南へと見出されてくるの
ですが、弥生時代後期以後、北白川界隈の人々は忽然とその痕跡を消します。
その後、古墳の築造は、桂川流域にて顕著になされ、伏見区や山科区など河川の下流において
なされることになります。そこへ何らかの事情で北白川界隈の人々が移住したと推理されたり、
もっと広範囲に市外へと移住したとも推理されています。
北白川界隈以外での縄文時代遺跡の発見が少ないのが背景としてありますが、現在の時点では
以上のごとき推理で考察せざるえないです。
京都市西京区の南に隣接する向日市には四世紀に全長約百m規模の前方後円墳が五つ築造され
西京区でも古墳前期築造とされるものが幾つかあります。古墳群として括れる範囲に位置
します。よほど、人口の集積と富が当地には備わっていたと推理できます。
一本塚古墳(全長100m)、寺戸大塚古墳(全長98m)、妙見山古墳(全長115m)
(50)2002.7.12 九頭竜川流域(福井)
四世紀後半築造とされる二つの前方後円墳が九頭竜川を挟んで対置する。
手繰ヶ城山古墳(125m)と六呂瀬山2号墳(140m)
二つの勢力が相対するという見方もできます。
1530年、大内氏は佐賀平野の中心地ともいえる神崎に侵入、少弍氏の庇護者、竜造寺家兼は
少弍冬尚の籠城する。福寺城の救援に向い大内勢を田手畷で阻止したが大軍に苦戦していた
折り大内勢の側面を鍋島清久一族が襲い敗走させ竜造寺一門の危機を救った。
これは、鍋島一族の華々しいデビュー戦です。
この田手畷という地は吉野ヶ里遺跡がある付近ですが、この東側に上峰町があります。
茲には次のような遺跡がある。
船石遺跡(県史跡)
船石遺跡は、船石地区の丘陵上に広がる町内でも有数の大遺跡で、縄文時代から中世に
及ぶ遺構や遺物が発見されている。船石遺跡のほぼ中央に位置する船石宮天神社境内には、
船石の地名の起こりとなった「船石」はじめ「亀石」、「鼻血石」と呼ばれる巨石が残って
いる。船石と亀石は支石墓、鼻血石は5世紀代の古墳の石室の天井石であることが
発掘調査でわかった。このほかにも境内には、甕棺墓約100基、5世紀代の古墳2基を
はじめ、住居跡、それに墳丘墓ではないかと見られている基壇状の遺構などが検出され、
県の史跡として指定されている。また、古墳から出土した蛇行状鉄剣や蛇行状鉄矛は、
県の重要文化財として指定されている。
目達原古墳群
戦前までは、目達原(米多原)一帯には、前方後円墳7基と大小の円墳が点在し、
目達原古墳群と呼ばれる5世紀後半代の古墳群として知られていた。
当時、米多地区を中心としたこの地域は「米多国造」が治めていた。その初代の米多国造に
任命されたのが応神天皇の曾孫にあたる都紀女加という人物で、以後、この地を代々治め、
目達原に古墳を残したのが都紀女加とその一族であった。
さて、この米多が継体天皇の祖先、息長氏の支流一族の拠点といわれている。
息長氏は近江の湖北に拠点を置いていましたが、それ以前は、淀川水系の三嶋野に拠点を
置いていたといわれる。
琵琶湖の湖北には鉄生産集団が組織されており、越の石棺の様式が九州地区に波及していると
する説など加味していくと、あながち、魏志倭人伝に記載されている二世紀の倭の抗争が
朝鮮半島の鉄を巡る九州対近畿・吉備の抗争であるとする説は注目すべきように思えます。
(49)2002.7.9 木地師
福井で今年、木地師の祭典があるという。先日、若狭歴史資料館に訪れ、鳥浜遺跡などから
出土した精巧な木製品を見て、その技術水準の高さを誇りに思ったものです。
今日のITや金属加工技術等に移行してはいますが、もの作りのノウハウは木地師に帰する。
河川と深く関わり過ごした古代人ですが、河川の上流へと移動していったのは弥生時代で
あったかもしれない。十人は乗れる丸木舟も櫓も見たが、大木を求めて居住地を移動した
ことも考えられることです。
九州の吉野ヶ里遺跡、奈良桜井の古墳群、丹後、吉備、福井、出雲いずれも後背地として
広大な原生林を有していた。群馬も青森もそうである。
権力への欲望は外からもたらされたものだと私は思っています。中国の歴史がもたらした
負の部分。稲作と文字と金属製品が正の部分であるなら、巨大古墳はまさに独自の産物と
いえます。今日的にみるならそれは信仰と深く関わる産物であったといえます。
(48)2002.7.6 京都府美山町(3)
愛宕山が京都で最も高い山ではない。890.5mあるが、それより少し低い比叡山でもない。
愛宕山の隣に連なる地蔵山が947.6mで竜ヶ岳が921m。この二つの山は京都盆地から
見上げてみるに愛宕山の頂を越えることはないのです。
実はこれらの他に900mを越す山が芹生から芦生原生林にかけて幾つもあるのです。
にもかかわず、正確に測定する手立てを持たなかった古人が愛宕山を信仰したのは理解できる。
芦生地区の松上げは火の神愛宕明神に奉納する神火として起こったといわれています。
これが芦生原生林の模型です。(京都大学演習林資料館より)
鯖街道として知られる道は琵琶湖の西岸に沿っている道ですが、他にも幾つかあった。
その一つに芦生原生林の西沿いの道があります。美山から小浜市までに名田庄町を通る。
名田庄町に岩の鼻遺跡があって縄文遺跡である。古墳後期には前方後円墳が築造されていて
(坪の内古墳)、平安時代には陰陽道の安倍家ゆかりの地と知られる。
他に皇子塚があり、被葬者は履中天皇の子市辺忍歯王といわれているが、定かではない。
小浜市と上中町それに名田庄町を今日訪れた。
小浜市と上中町にある前方後円墳は鯖街道の起点付近に集まっていて、そこで得た資料を
見て再確認したことがある。三方五湖にあった鳥浜遺跡は有名ですが、一箇所ではなく
付近に幾つもの縄文遺跡があった。弥生時代遺跡はそこから西南へ移行した区域に集まり
古墳時代になってさらに茲に移行したことが若狭遺跡分布図によって示されていた。
小浜市の西部にも遺跡はあるが継続定着を示している。鯖街道は琵琶湖の北岸今津にも
向うように、上中町から今津は目と鼻の近さです。滋賀の勢力との関連が古墳形成に
見受けられる。参照ー「若狭の村風景」
(47)2002.7.5 京都府美山町(2)
美山町の市街地の南はずれに、道祖神社があって、その社伝によると、五世紀後半の
創建にまで遡る。祭神の一つに「木梨軽皇子」がある。木梨軽皇子は允恭天皇(倭の五王
の一人「済」王)の子で弟に王位を奪われ伊予に流された。彼が茲を永住地にしたとされる点
で疑わしいとされるが興味ある話といえます。
また北の外れには、秦河勝の末裔と称した川勝氏の居城跡がある。(戦国時代)
応神天皇が敦賀に幼い頃滞在した話や高志への遠征帰還後の山城での反乱などの話などを
材料に推理を展開していくと亀岡や京北の丹波国の人々の遠征派遣の道中として美山町は
あったとも考えられる。
(46)2002.7.2 京都府美山町(1)
京都府の秘境の地として位置する美山町は萱葺きの里として今日その名が知られる。
芦生(あしう)原生林を有する町として古くから知られるが、京の都から見れば
遥かな奥地に佇む神聖な区域であったことだろう。
京都市の西北に聳える愛宕山の頂から眺めても見渡せぬ地であった。
かつて、都を追われ隠れ住んだ惟高親王でさえ府内最大の面積を有する美山町の南端より
手前であった。現在、京大の演習林として管理されている芦生原生林に人が定住させられた
のは1638年であったという。当初は十数名という小人数であった。
由良川の源流である当地へ人が踏み入れたのはさらに千年前という痕跡があるという。
(佐々里という地名からの推理で新羅系渡来人の足跡をみる人もある)
源流と言っても、川幅は広くそして深い渓谷である。今日はその入り口付近を歩いた。
廃村になった灰野に社があり、そこに直径一メートルを超える栃の大木がうねり佇む。
江戸に都が移らなければ恐らくこの一帯の植林や原生林は跡形なく消え去ったかもしれない。
それにしても、当地は山東町を含めた丹後の諸国と地形的に類似している。
新羅人等の朝鮮半島からの渡来人にとっては故郷を偲びうる環境であったのかもしれません。
川原石を積んで礎石とし、その上に居を建て、山肌を開墾し農業を営むという生活の強さを
未だにあちらこちらで見受けるのは、歴史の本質を示しているようであった。
この美山町の北に福井県名田庄町があり、その北に小浜市と上中町があって日本海へ
出るのですが、小浜市は旧新羅国の都市と姉妹都市を結んでいますし、上中町には
古墳が多くあって注目されている区域です。東の鯖街道と西の周山街道が茲で結ばれる。
この二つの街道に挟まれているのが美山町というわけです。
丹後の海人族が一つに東に移動し、茲、小浜にて滋賀の豪族と交わりを深めたのが
丹後の勢力途絶えた後と考えられるのです。五世紀の時代と思われる。もっともそれ以前
より当地には縄文時代より人々の営みは継続はされています。(鳥浜遺跡)
(45)2002.6.21 兵庫・山東町若水古墳群
弥生時代末期〜古墳時代初頭(三世紀後半〜四世紀前半)の大規模な円墳から
「内行花文鏡」と呼ばれている青銅製の鏡が一枚見つかった。
製造場所は不明だが、銘文がないことから日本製と考えられている。
「内行花文鏡」については、
九州で製造が始まったとされている。最古のものは二世紀末〜三世紀初めで、
近畿では奈良天理市で出土した三世紀末〜四世紀前半頃とみなされるものだけで
およそその間百年の空白が推理できないでいたところ、今回の出土によって
にわかに兵庫の地域が注目されることになったと書かれていました。
丹後考\播磨で取上げています柿坪遺跡の大規模集落跡
付近に今回の山東町若水古墳群はあります。最近城崎に行く途中に茲を通りました。
京都府に隣接するのに今では播磨方面から訪れる車が多い地域です。つまり茲が
地形的にも京都と播磨への分岐点ということです。
推測しているように、古墳時代の終焉とともに当地における勢力は播磨方面へ移動
するのです。
ちなみに昨年の調査では、中国大陸か朝鮮半島で製造された「飛禽鏡」という銅鏡が
見つかり死者の頭部に置かれていたと考えられています。
(44)2002.6.18 〜四世紀築造の吉備の前方後円墳
岡山県の古代吉備国には「茶臼山」の名をもつ前方後円墳が幾つかあって
築造年代が三世紀後半とみなされているものは三つある。
「茶臼山」という名称は円形の石臼に長方形の取っ手がついた平面形を
思い描いたものと考えられている。
浦間茶臼山古墳(岡山市東部、吉井川と砂川の間の丘陵)
墳丘全長138m。箸墓古墳と同じ設計とされている。
網浜茶臼山古墳(岡山市街地の東)
墳丘全長92m。南側の瀬戸内海(現在の児島湾)に視界が開けており、
内海航路からの遠望を意識して築かれた古墳とみられている。
中山茶臼山古墳(吉備津神社の後ろ側)
墳丘全長120m。箸墓古墳とは異なる設計とみなされている。吉備独特の
形といえます。
この他にも〜四世紀前半に築造とみなされる前方後円墳は総社市の三輪山丘陵にあります。
墳丘全長55mと小型ですが民衆墓からは隔絶した規模といえます。
(43)2002.6.15 四世紀築造の前方後円墳
四世紀築造の前方後円墳を検索で調べてみました。
四世紀初めとされる奈良県桜井市の箸墓古墳に代表される当地の王陵は別にして
地方豪族の首長墓と考えられます。
四世紀初めの頃に茲では記載していない丹後や滋賀、岡山、三重などの古墳を
併せ展望してみると、国の形が見えてきます。魏志倭人伝に記載された諸国の
概観とは大いに異なるものではありませんか。
大阪府高槻市を中心にした三嶋古墳群は淀川水系における開発を教えるもので
そのことは瀬戸内航路が既に四世紀初めの頃には整備されていたことを示すと考えます。
奈良市や天理市にある古墳群は当初ワニ氏の祖と思っていたのですが、箸墓古墳がある
桜井市の古墳群とは異質のものという見解があることを踏まえると、桜井市の古墳群の
被葬者達とは異なる政権と考えるべきかもしれません。桜井市の古墳群と似ているのは
後の葛城氏の拠点とされる馬見古墳群という。
瀬戸内航路の開発は河内や淀川水系の豪族の勢力拡大に通じ、それに伴って桜井市の古墳群
を築造した圧倒的な勢力は減退を余儀なくされたと考えられる。
(42)2002.6.13 闘鶏山古墳
継体天皇陵と有力視される大阪府高槻市の今城塚古墳から一キロ北西に位置する処に在る。
西南二キロ程には五世紀中頃の築造とされる太田茶臼山古墳が位置する所謂、三島古墳群の
中程にその古墳はあります。
全長86.4mで南向きとされ、被葬者は北枕で安置されているという。ちなみに
太田茶臼山古墳は奈良へ向けられている。向きについてはまた別に扱いますが
最古の未盗掘石室として脚光を浴びているのです。
古墳前期、四世紀前半の築造とされ、応神天皇の時代より半世紀遡る点で私は注目したいです。
地理的に考えますと、この古墳の東西に亀岡に通ずる街道があり、一つは攝津峡、今一つは
竜仙峡という名勝地を経由しています。共に古山陰道で在っただろうと思います。
亀岡の入り口は「矢田口」という地名で「ヤタガラス」の「ヤタ」であろうか。
古墳がある地名は氷室町です。これは三嶋御陵の後に付けられたものかもしれません。
いずれにせよ、内視鏡調査の時点ではここまでです。
(41)2002.5.27 忌部氏
大和の豪族は臣姓と連姓に分けられるが、忌部氏は物部氏と同じ連姓に分類される。
他に土師氏・弓削氏・鏡作氏・津守氏・犬養氏などが知られる。
その職分において勢力を築いた氏族です。忌部氏の職責は代々国家の祭祀を担当していたが同時に
その初期つまり六世紀に入って朝廷内部が分業化されるまでは、地域の開拓をも担っていたと思われる。
私の考えでは、雄略天皇の頃に阿波忌部氏が起こったとしている。他には、讃岐、紀伊忌部氏などがある。
安房国にも忌部氏は派遣されているが、その後のことだと考えます。
職責の一つに神前にささげる幣の製作とその原料確保がありましたが、幣の原料は麻です。
とりわけ徳島は麻の産地として当時着目されて開発されたものと思います。何故に徳島に派遣されたかは
定かではありませんが、瀬戸内と大和を結ぶ幹線経路として位置付けられていたものと推理してます。
幣の製作は後に和紙の製作へと発展し、各地に紙祖神を置く社が設けられていくことになります。
宗教的職分は中臣氏と忌部氏が関わるようになり、物部氏と蘇我氏との対立に巻き込まれていくのですが
「古語拾遺」を起草したことでも知られるように、蘇我氏の滅亡とともに忌部氏もその勢力を失っていきます。
とはいえ、公の席を全く失ったわけではなかったようです。
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