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丹後考Y
フリートーク(5)
(40)2002.5.20 徳島の位置など
岡山と四国を結ぶ連絡道を香川の高松とする固定観念は今も強く宿る。
これは古代を再考する上でやはり改めて置くべきと思う。
九州や岡山の古代を考えると四国への玄関口は愛媛であり、近畿の古代を考えると西の玄関口は徳島で
あったろう。香川県が古代史の上で注目されない理由でもあろう。しかし、香川の西、善通寺辺りは
縄文遺跡が発掘されており、愛媛ー善通寺ー吉野川ー徳島を結ぶラインは四国の幹線ルートと考えて
よいかと思っている。従って、高松や高知は当時においては辺境の地と捉えるべきことかと思う。
七ー八世紀に秦氏などの帰化系氏族の一部がこれら辺境の地に移住させられたとする見解とも一致する。
忌部氏について
阿波忌部氏は中でも主たる勢力を持ったといわれる。
吉野川を遡り、日程の許す限り足を伸ばそうといういつもの無計画さで湯に入った処が貞光町でした。
北に行けば善通寺に至る分岐点にその町はあった。郷土土産に「忌部味噌」なるものを買い今食しています。
この貞光町一帯が阿波忌部氏の拠点だと後で知る。貞光町のページで書かれていたことですが、一応そういう
ことで進めていくことにします。
「うだち」を残す町はそう多くないが、貞光町は観光の目玉に据えている。
飛騨高山、美作、近江八幡、喜多方と似た風情を持つ町が思い起こされる。
忌部氏にゆかりのあるものとして麻があり、麻から藍染めつまり阿波特産の一つ藍作りが今日残る。
織田氏や秦氏等の帰化系氏族との関わりも調べる中で書かれていました。
そういうこともあって何か因縁を覚えたことも手伝って暫く忌部氏について触れていきたいです。
(39)2002.5.19 徳島・淡路島旅行
1年ぶりの旅行でした。四国へは二年前に愛媛に行った。古代への旅の最後の課題をそのままにしていた
だけにほんとは香川県に行きたかったのですが、吉野川に魅せられた。
地図からの先入観で徳島も吉野川も捉えていたものだから、その広大さに驚いた。
愛知・長良川、大阪・淀川、岡山の河川流域と同等の文化ありしという感慨を得たものです。
で早速下記の遺跡資料を載せた次第です。四国縦断道路の建設に伴う遺跡発掘調査成果という点で
徳島の発掘調査は他の区域に比して随分遅れている。古代の遺跡がこれまでの開発で多くが失われたものと
思いました。美馬郡に剣山がありますが、その山麓に温泉が集まっている。少し地名や人物名をインタビュー
してみたのですが一様に歴史について疎いのです。のどかな土地柄の所為だと思います。例えば道路標識の
こちらで言えば不親切さに大いに惑わされたのも「のどかさ」故のことと思いました。
ともあれ、古代考察において徳島は再考すべしと自らに言い聞かせました。
ー徳島県埋蔵文化センターページよりー
蓮華谷古墳群(れんげだにこふんぐん)(2)古墳前期/古墳後期
吉野川下流域に位置する板野郡板野町は、吉野川氾濫の沖積平野と阿讃山脈の400m級の山々が東西に
並ぶ山地部で形成されています。町の南側約1/3を占める平野部の多くは湿地帯となっています。
北側の約2/3は山地部で、尾根の間に黒谷川、犬伏谷川、松谷川などの小さな川がたくさんあります。
しかしこれらの川は降雨期にしか流れが見られず、山間部には灌漑用の人工池がしています。
蓮華谷古墳群2は、南東にのびる尾根の標高17〜27mの地点にあります。
蓮華谷古墳群2では、発掘の調査区外北側に竪穴式石室と思われる石材が露出した円墳が確認されており、
これを1号墳としました。以下北側より順に2号墳、3号墳、4号墳、5号墳、6号墳、7号墳としました。
その他では石室墓、土壙墓が検出されました。2号墳は弥生時代が終わって古墳時代に移り変わっていく時期、
その他の古墳や墓は古墳時代の後期に属することが分かりました。
板野町は、重要な遺跡の宝庫であるにもかかわらず、交通の便の良さや中央構造線による破砕帯の
土砂が多いことなどが災いして、山々で開発や土取が盛んに行われた結果、残念ながらその存在が
知られないままに破壊された古墳も数多くあります。そのような状況で、蓮華谷遺跡群2では、板野町を
含めた阿讃山麓地域の古墳時代の様相を明らかにしていく上で、重要な資料となりました。
桜ノ岡遺跡
桜ノ岡遺跡(1)では、1986年度に実施された精密分布調査によって弥生土器片や石器が採種され、
その密度から遺跡の存在が予測されていました。徳島自動車道の建設に伴い、1989年度から2度に
わたって約8,000平方メートルの発掘調査が行われました。
発掘調査では、弥生時代中期と中世(12世紀頃〜16世紀頃)の遺構面(当時の人が生活した地面)が
混在して残っていることがわかりました。
弥生時代中期の遺構では、竪穴住居跡や堀立柱建物、集石遺構が検出されました。集石遺構は、
竪穴住居跡の中や近い位置にあるものと、土壙墓(墓)と考えられるものに分けることができます。
前者は、住居が壊される時の祭祀に関連すると考えられます。後者は儀礼的な行為と埋葬行為が
同地点で行われたものもあると考えられます。
また、出土した弥生土器の文様を検討し、遺構での土器の組み合わせの比較によって、
弥生時代の桜ノ岡遺跡(1)が時期的に2段階に分類されることが考えられます。
中世では、出土遺物はそれほど多くありませんが、19棟の堀立柱建物をはじめ、溝や土壙墓が
検出されました。堀立柱建物は、軸の方向を見ると大きく2方向に分かれているようです。
また本来一条の溝と、別の溝が直行に近い方向で検出されたことから、これらによって区画が
設けられていたことも考えられます。
遺構面以外の出土品を見てみると、旧石器時代や縄文時代の石器も含まれ、
古い時代の人の生活も想像できます。
赤坂遺跡
赤坂遺跡(1)(2)(3)は、長峰台地と呼ばれる平坦な台地上にほぼ同時期に形成された一連の小規模な
集落であると思われます。出土した土器や竪穴住居跡の形態から、赤坂遺跡は弥生時代中期末から
後期初頭に営まれたと考えられます。
遺跡の規模から、台地上に営まれた畑作経営に関わる管理小屋あるいは食料採取のためのベース
キャンプ的な小集落であったと考えられます。
天神山遺跡
調査対象地内の、尾根部分および東斜面のごく一部で、弥生時代の遺構面が検出されました。
尾根の部分では、斜面部で土壙墓と見られる遺構が5基と、土坑が9基検出されました。土坑は、
土壙墓またはそれに近い性格を持つと思われ、土壙墓と同じ弥生時代後期前葉を中心とする時期が
考えられます。このため、この尾根上は墓域と考えられます。
集落については、東斜面で検出された竪穴住居跡がその一部を構成していたと考えられますが、
住居が小規模であり、戦闘用の石鏃が多く出土していること、炉が浅いことなどから、見張り小屋的な
存在であったと思われます。
この地域は、1963年の文化財基本調査で天神山古墳群とされる地域の一部に含まれます。
この古墳群の実体については、その後の調査もなく不明ですが、須恵器器台の出土によって、
削平された尾根頂部にかつて古墳が存在した可能性を示唆するものと考えられます。
金蔵〜上井(こんぞう〜うわえ)遺跡
従来吉野川北岸地域で全く出土しなかったチャートを素材とする石器群が検出されました。
徳島県内で、チャートを素材とする旧石器はが出土していたのは、県南地域に当たる廿枝遺跡
(はたえだいせき阿南市桑野町廿枝)だけでした。また、出土した石器の特徴が、廿枝遺跡と
類似する物もあり、両者の比較は県内の旧石器時代の研究を行う上で大きな意義を持つと思われます。
前田遺跡
前田遺跡は平成2・3年の二年間にわたり約10,000uを発掘調査し、旧石器時代から近世に至る
遺物と共に弥生時代後期末葉から後期初頭にかけての集落跡、中世の集落跡、近世の梵鐘鋳造に
関わる遺構などを確認することができました。
弥生時代から中世の遺物が混在する土層からのナイフ形石器や石核が出土したことから、前田遺跡
の初現を旧石器時代までさかのぼることができると思われます。また、縄文時代草創期、中期、後期の
遺物や遺構を確認し、断片的な姿を垣間見ることができます。
弥生時代中期以降になると、集落の形成が始まります。検出された遺構の位置から復元される集落の姿は、
中央に広場的な空間を持ち、その周囲に竪穴住居や堀立柱建物が配置されるものでした。この集落は、
土成町一帯の扇状地に展開する同時期の遺跡群(北原遺跡、北原〜大法寺遺跡、土成前田遺跡)の
中では最大のものです。堀立柱建物の多さから見ても、この地域の中心的な集落であったと考えられます。
そして、弥生時代後期初頭には廃絶したと考えられます。
青谷遺跡
青谷遺跡からは、旧石器時代のナイフ形石器、横長剥片、縄文土器・石鏃、弥生土器、須恵器、
土師質土器、陶磁器類など多種にわたり出土しました。
特に、チャート製の石鏃は、石材利用の点から注目できる出土品です。チャートを産する三波川帯・
秩父帯である険難地方では、廿枝遺跡、古屋岩陰遺跡ではチャートを主体とするが、石材としては
サヌカイトも優勢で、時代が下がるほどにその傾向が強いと言われています。吉野川流域地方では、
小型の剥片石器の素材はほとんどがサヌカイトですが、チャート製の剥片石器は、赤坂遺跡(2)の石核、
桜ノ岡遺跡(3)の細石器、金蔵〜上井遺跡の旧石器群、前田遺跡の有舌尖頭器、柿谷遺跡の
ナイフ形石器などその例は増加しています。これらの例は旧石器または縄文時代の古い時期に
あたるもの考えられ、本遺跡も同様で、県南地域との交流を考える上で貴重な資料の一つと言えます。
(38)2002.5.14
空海が唐に訪れた時代は、安禄山の乱以後急激に広まった真言密教すらそのピークを過ぎていた。
さらに、仏教に対する弾圧が始まろうとしていたのである。空海が教えを受けた僧は、玄宗皇帝の
帰依が厚かったインドから来た密教僧・不空三蔵の弟子恵果であり、そうした唐における仏教の
動向を充分理解していたものと思われる。空海が帰国後の半生を真言密教の根拠地を計画的に確実に
実現していくことに奉げた時代背景と思われます。835年、62歳の生を終えた。
梅原氏はまた次のように語る。
「もともと日本在来の神と新しく移入された仏との間には、数々のトラブルがあったが
神と仏との共存が確立したのは東大寺建設において応神天皇を主神とする宇佐八幡が
はるばる遠く九州からやってきて、東大寺建設を祝福したことによる。」
宇佐八幡がやってくるわけではないのですが、宇佐八幡を信仰する勢力が政治的に協力
したといえるのです。
宇佐八幡は大分を根拠地として、福岡つまり北九州の勢力を地盤に発展していた。
宇佐という地名が西高知にあります。以前にもどこかで宇佐については調べたことがあるのですが
たまたま、今回、梅原氏の記事を読んだ折に、四国巡礼で高知へ行く母の日程の中に宇佐という名を
見出し、注目したわけです。
今一度調べ直したい宇佐八幡の歴史です。
なお、空海が薬子の乱の際に嵯峨天皇と密談し、宇佐八幡から勧請したとされる八幡神は東寺の
鎮守八幡宮に置かれ、今も毎月21日拝殿で八幡神護摩供が行われています。
(37)2002.5.12
京都の東寺の五重塔は異例の塔であるという。
仏教の始まりは塔の崇拝であった。塔とは釈迦の遺骨=舎利を納めるものである。従って
飛鳥・白鳳時代建立された法隆寺や四天王寺などは横ないし縦に並べられていた。
ところが、大乗仏教の発展過程で、仏像を納める金堂の方が重要視された。その結果、
仏教伽藍の中心には金堂が置かれ、僧たちに講義する講堂が一直線に配置される。
塔は金堂の前に左右二つ設けられることとなった。
奈良時代の興福寺や東大寺の伽藍配置はこういうものであった。
さて、東寺の伽藍配置は東大寺などの先例に従ったものであるのだが、何故か東の塔のみである。
西の塔の位置には灌頂院という建物があるのです。
灌頂院とは、 奈良文化財研究所の調査研究資料では
「東寺では灌頂院と西院との両者相まつて、一つの働きをなす所、宮中の真言院の一部に通じているのである。
その西院は灌頂院の北方に位置している。創立は空海というが、その年代はあきらかでない。延喜元年(901)に
宇多天皇が灌頂をうけられた時、西院も使われているので、その時までには設立されていたと思われる。」
などが書かれており、真言密教において最も重要な道場であったと思われる。
日本の国を鎮護し、天皇の玉体安穏を祈るべく真言密教の奥義を師から弟子へ伝える伝法の灌頂が
行われる場所が灌頂院である。
794年、平安京に遷都した桓武天皇は羅生門を挟む形で東寺と西寺の建設を命じ、796年に、両寺
建設長官・藤原伊勢人が任命されたという。空海は当時23歳で、大学の学問に不満を抱き出家して
山野をさまよっていたものと思われる。
806年に二十年の留学期間を勝手に二年に短縮して帰国した空海が、東寺を賜ったのは823年である。
しかしその時伽藍配置は定まっていたものの金堂すら建設中であったという。伽藍配置をそのままに
空海はその内容を全く異なったものに変更したのです。ちなみに灌頂院の完成は空海死後とされている。
(36)2002.5.9
正倉院文章や木簡で「丹波」を表すのに「旦」や「但」の字を使用していることから「旦の国」という
捉え方で展開する学者がおられる。「古事記」では「旦波」とされている。
丹波・但馬・丹後という国の分類は律令制によるもので、713年以前、丹後は丹波の北部五郡を
指していたと考えられる。従って、丹後の巨大前方後円墳の築造当時は丹波国と称された時代です。
継体天皇誕生以前の話としてある、大王探しで候補になった「丹波の倭彦」の勢力は旦の国の中と
いうことです。最も桑田郡とされているので、分類後の「丹波」地域ということです。
河の区分では丹波は淀川水系とされ、丹後・但馬は日本海水系とされています。
(35)2002.4.19
弥生時代の信長が論じられているそうだ。東海地方狗奴国説を展開する人々の間で論じられている。
紀元前一世紀頃、織田信長の居城・清洲の近くに最盛期を迎えていたとされる、逆茂木で有名な
朝日遺跡を遺した弥生人がいた。その集落跡推定面積は吉野ケ里遺跡の二倍とされる。
ところが、三世紀には落ちぶれた痕跡が調査で判明しているともいう。
朝日遺跡の次に注目されたのが、一宮市にある八王子遺跡で大型建物(12m四方)や祭祀用土器
の他人工水路が発掘されている。二世紀末と見られている。
この二世紀末は、その時期に濃尾平野から伊勢湾岸にかけて現れるS字甕分布エリアと関連して
考えられている。
論の展開は、奈良の邪馬台国所在地にまで及び、河内王国論とも結びつけられて論じられている。
「濃尾平野発掘の著名な遺物」
・S字状口縁台付きかめ・・口を飾る部分の断面がS字状に曲がり、底に台の付く独特の形で
薄手で火の通りが良い優れた煮炊き用土器。原料となる砂の産地に共通する点が
注目され始めている。
・逆茂木・・環濠にとがったくいを並べてバリケードにしたもの。
・三遠式銅鐸・・逆さに埋めた「逆さ銅鐸」として知られる。
・田と墨書きされた土器・・S字かめの発明地とされており、「聖なる砂」として土器の製作に
加えられた砂の原産地である。
・前方後方墳・・三世紀中〜四世紀初めまで築造されたことが確認されている。
(34)2002.4.14
866年、応天門が炎上して後、藤原良房が摂政となった。「今昔物語」の中に、現在ある山科・
勧修寺の敷地に邸宅を構えていた宮道弥益(藤原高藤の義父ー宇治郡の大領)の娘と高藤の純愛が
語られている。
この娘は高藤の正式な妻となり、列子といい一説には「玉の輿に乗る」という言葉の源だという。
高藤は男子のいない叔父良房にかわいがられ大納言にまで出世した。彼の娘は宇多天皇の女御になり
醍醐天皇の母であった。醍醐天皇が即位すると、外祖父の高藤は内大臣に、宮道弥益は従四位にまで
出世する。話はこれからです。
高藤と列子の四代の孫が紫式部であり、宮道一族の子孫の中に長く京都府の知事を務めた蜷川氏が
あるという。私の話は高藤を祖とする勧修寺家の一族の中に「葉室家」があると知ったことに始まる。
京都洛西の丘陵地に葉室という地名がある。葉室幼稚園は進学園として有名ですが、傍には葉室家の
墓地があり、隣接する形で山田一族の祖と思われる古墳があります。その近くにハタさんや
「山田開き町」があって以前話をしたことがありますが、とても興味深く思いました。
(参考ー梅原猛の続「京都遊行ー48ー」)
それにしても久しぶりに茲に記載したことになります。まだまだ続きますのでよろしく。
(33)2002.1.23
昨夜、私事で「阿蘇山」を検索していて、たまたま下記の記事を見た。かつて、
熊本の阿蘇氏について古代メモで着目したことがありました。諏訪湖における
古代氏族の反目を調べていた折のことでした。それに関連する記事です。
「・・・時の副執権たる北条義政の隠遁の地として、なぜ鎌倉から遠く離れた信州塩田
の地が選ばれたのか?
塩田は、少なくとも今から一千年前は、安宗(あそ)郷(阿曽郷ともかく)といって
いたことが、『和名抄』という朝廷が編さんした書物に載っている。この「安宗」と
いう名は今も、塩田平の南方に聳える安曽岡・安曽岡山(何れも東前山・柳沢両区に
またがっている)に残っているが、実は九州の阿蘇山の「阿蘇」と関係の深い名である
ことも考証されているのである。
大和朝廷がようやく国家の形を整えつつある頃、当時文化の先進地であった九州から、
たくさんの氏族が、大和平野に移り住んだ。そして大和朝廷の国造りに参画し功績を
あげたが、その中に阿蘇山の麓からやってきた阿蘇氏の一族がある。
この氏族が科野国(信濃国の古名)の他数カ国の国造(今でいえば県知事に当る職)に
任命されたと記されている。
塩田の地は、この国造の所在地として比定される地である。その根拠は、塩田平に
阿曽岡・阿曽岡山などのアソと称する地名が残っていること、生島足島神社という
国魂神(国土生成の神)が「延喜式の大社」として現存すること(国魂神は、国造の
治所には祀られるのが通例であった)、一族の小子部氏の名が小県(ちいさがた)
(小子部の県の意)として残っていることなどによっている。ちなみにその後、
上田市には信濃国分寺・尼寺が建てられており、しかるに信濃国府もはじめは上田市に
あったものと推定されている。」
塩田の名の由来に興味を持たれて辿りつかれた記事であります。私の場合は、
阿蘇または阿曽という地名を丹後地方や岡山県で当初見出し、?マークしたものでした。
この氏族は同種の鴨氏ほどの勢力はなかったものの、大和朝廷の国造りに参画し
少なからず功績を遂げたことは、室町時代まで生き残った氏族であったことでも知れる
ところです。私の推測では、丹後との関わりが最も古くからあったとしています。
理由は極めて単純なことで、丹後の海上拠点にその名が残っているということです。
メモです。
(32)2002.1.12
ー朝日新聞2002.1.12朝刊記事よりー
古墳前期の倉庫とみられる柱穴跡が七尾市の万行遺跡から発掘されたと、七尾市教委が11日発表した。
年代的には4世紀初めで、時期的には3世紀の福岡県甘木市の平塚川添遺跡の大型建物跡に次ぎ、
規模的には大阪市の法円坂遺跡の広さ100平方メートルの倉庫跡を上回る国内最大級で、
同市教委は地方豪族の集合体が物資の集散地として利用したとみている。
柱穴跡は53カ所見つかり、二段掘りされていた。3棟が倉庫跡、1棟は管理棟跡とみられる。
柱の間隔は東西4・1〜4・5メートル、南北3・9〜4・9メートル。管理棟とみられる柱跡は
倉庫群の東側にあり、西側にひさしのような施設がついていたことをうかがわせる穴があった。
いずれも掘立柱(ほったてばしら)建物とみられる。
この遺跡の近くを臼池川が流れていて、古墳期は海岸線が迫っており、同市教委は、船で物資を
海から川を使って運び込み、倉庫に収めたとみている。
一帯は道路や宅地分譲する予定だったが、同市教委は「国の史跡指定を受け、保存や復元を
考えたい」としている。
武元文平市長は「保存・活用に向け事業者や地権者、国、県、研究者と協議していきたい」
との談話を出した。
武末純一・福岡大人文学部教授(考古学)の話
近畿などの政権地以外に、もっと倉庫跡が見つかってもおかしくないと思っていたが、
予想通りだった。今後は遺物の中に東日本の物や近畿、朝鮮半島の物が出てこないか調査する
とともに、倉庫跡と見るのが正しいかどうかも含め、みんなで議論していきたい。
阿彦王国の伝承説話を裏付ける遺跡であろうと捉えています。「丹後考」の冒頭で触れて
ありますが、崇神朝の頃の伝承で、後に、高志道への大和政権本格参入となる歴史を
示す遺跡です。能登半島の付け根にあたる西岸の千里浜からその東岸に位置する七尾市
万行までは一直線に羽咋川が途中まで通じている。いかなるルートで富山湾に進行したか
以前触れたことがありましたが、大和側が七尾市を拠点にしたとしたら、阿彦王国が
最後に終結した立山山麓地点の説明に合致するようです。
このことは、大和政権が阿彦王国を攻め落とすことが第一目的ではなく、彼らが勢力の
基盤にしていた翡翠の生産拠点を支配下に置くことにあったともいえます。富山湾を
飛び越えて新潟県境にある翡翠産地へ赴くには七尾湾を拠点にするのが最良策といえます。
(31)2002.1.3
昨夜、出雲の巨大神殿と安土城の特集番組が連続してあった。どちらも再放送であり
どうも見過ごしていたようで、今更ではありますが少し触れて置きます。
出雲大社の巨大柱の年代測定は鎌倉時代、12世紀前半と結果が出ていて、それ以前の
形跡は他に類を見ない築造形式という点で出雲地方独自のものとされている。
古代の様式としては同じ出雲地方にある二世紀代の遺跡にほぼ類似したものがあって
記紀に記された巨大神殿の信憑性が建築工法の再現研究と併せた上で確認されたと
いいます。鍛造技術と木工技術並びに建築工法が当時既に成熟の域に達していたことを
示すものであろう。その高度な技術は中国からもたらされたものである。
技術者の性格を考えた時に、二つある。一つはパイオニアスピリッツを有した秦氏の
ような性格があり、もう一つは閉ざされた世界に固執する性格がある。
後者は出雲の例といえます。
特異な安土城を築造した信長の解明が城の全容解明とともに進められていて、今までの
信長像が塗り替えられつつあるようです。
これら二つの番組は歴史考察への提言をしているように私には思えた。
情報の処理技術の進歩に対して歴史考察も追随しなくてはならないことを提起している
ように受け取りました。その底辺にあるものは「あくなき探求心」であることも。
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