嵐山文学

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丹後考] since 2001.9.23 出雲街道 最新 (2)2001.9.26  安芸国最大の三ッ城古墳 5世紀前半に築かれたとされる全長約92mの前方後円墳である安芸国最大の 三ッ城古墳は東広島の西条盆地にあります。 東出雲街道は尾道・福山方面へと辿るルートに現在はなっていますが、三次から 西条を経由して瀬戸内へ通ずる道路もありますから、古代の出雲街道は、もし 他に三ッ城古墳に匹敵する前方後円墳がないとしたら、このルートの可能性が 高いです。出雲国譲りは紀元二世紀までだろうと思いますが、丹後王国の歴史を みて類推するなら、この古墳を築いた勢力は築造以前から勢力を有していたと 推理できます。 そうだとしたら、西条から呉そして現在もフェリー運行されている航路で 松山に向かったと推定できるのです。 厳島神社を中心とした西広島には佐伯郡があって、この配置は播磨国と類似 しているのです。大和政権が古代において地方の豪族と連合体を形成しつつ 発展していったことを示しているものだと考えます。 ちなみに、少し疑いは有りますが、次のような遺跡がある。

木の宗(きのむね)山銅鐸銅剣出土地    昭和31年3月30日指定(県指定文化財)    広島市東区福田町  銅鐸、銅剣、銅戈は、銅矛とともに弥生時代の遺物であり、銅鐸は広島県では、 世羅西町黒川のものと本例の二つしかない。 中でも木の宗山(広島市東区福田)のものは、明治二十四年(1891)同地の 光町尽三郎氏がみた夢により、木の宗山西南の中腹にある通称「金の段」の烏帽子岩 の下から銅鐸一、銅剣一、銅戈一を掘り出して有名になった。 木の宗山(標高四113.1メートル)は、山陽自動車道の広島東インターの西北にあり、 銅鐸などの出士した場所は、標高260メートル(盆地との比高約160メートル)の 西南にのびたややゆるやかな肩部に当たり、烏帽子岩は平地からも望める。 山腹の大岩の下に青銅器類を一括して埋納した遺跡として注目されるが、 その意義はまだ謎である。

【 参考 】 遺跡をたずねてー中国新聞 三ッ城古墳 埋葬施設は,後円部に石棺を据えた竪穴式石槨2基と石棺1基があります。 石棺は西条盆地の一帯では弥生時代や古墳時代にありますので,伝統的なものと 考えられます。また,竪穴式石室はいくつかは知られていますが,石槨内に石棺が 入れてある例は本古墳のほかには知られていません。竪穴式石槨は竪穴式石室の 簡略化したものと思われますが,このような石槨の例がほかに知られていない ことからすると,以後は石槨の築造方法が伝わらなかったものと思われます。 なお,副葬品は昭和26(1951)年の調査で,鏡・玉類・鉄鏃・刀剣類・銅釧 などが見つかっています。  ところで,後に安芸国と呼ばれた広島県の西半分の地域には,この三ッ城古墳に 匹敵する規模の古墳はほかに見当たりませんので,葬られた人物は西条盆地一帯を 本拠にした首長で,安芸地域を代表するものとして,当時の畿内を中心とする 中央政権からその存在が認められて,巨大古墳が築造されたのではないかと 推定されています。 (1)2001.9.23  起点 出雲街道は島根・宍道湖より南下して、中国自動車道の三次インターから広島市へ ゆるく蛇行して繋がる。古代からこの街道が利用されていたかどうかはいえないが 道としての立地条件は整っていたものと推測できる。 島根の縄文遺跡の中に唯一ともいえる内陸部遺跡がある。名は「下山遺跡」という。 三次の北にある飯石郡の頓原町にある遺跡で縄文時代の早期から晩期に至るまで それぞれの時期に応じた生活様式の変化が伺える貴重な遺跡です。弥生時代には 生活の痕跡は消失している。つまりどこかへ移動したということです。 ここには、来島湖があって愛媛の来島と通じるものがあるようですが、これからの ことです。縄文時代を通して営まれた痕跡は瀬戸内地域との陸路での交易を推理 しうることを示しています。 この頓原町の北隣りに吉田村がありますが、広島県の出雲街道沿いにある吉田町 (毛利氏の出身地)と併せて、以前注目していたので、今回取り上げた次第です。 石見銀山街道は、来島湖の南を横切る。 邪推ではありますが、織田信長が織田氏の出身地越前より愛知そして天下を治めた こと、毛利氏が広島・山口・島根を治めたことを思う時に、その因果の源が 縄文時代に遡るという考えに囚われる。この考えはあくまで一条の光として 歴史探求に用いられるにすぎません。証明できるものではないです。 探求意欲の起爆材になれば、それで充分です。 双三郡三良坂町における弥生時代の遺跡発掘調査は顕著です。 三良坂町は三次の東に位置し、もう一つの出雲街道と称される石見銀山街道沿いにある。 ここから福山市へと南下していくのだが、西の出雲街道よりは瀬戸内にはるかに近い。 三良坂町が弥生時代の内陸部における中心をなした地域とされているのだろう。 先の頓原町に遺跡を残した人々は、南下し、三良坂町一帯で稲作文化を開いたと 考えられます。 一方、西の出雲街道では高宮町や向原町で弥生遺跡が発掘されているものの小規模 ですから、今のところ、東の出雲街道を主と考えてみたいです。 [ MEMO 088 ] 2000.6.17 「吉田」という地名 「2000AREA」で広島県を探索していましたが、神楽団と二つの出雲街道、 それに加えて、吉田町のページ記載が目立ち、訪ねてみて、展開良かったです。 以前から「吉田」の地名は留意していました。池田や山田、小野、大野、ハタと 同じ程にしていました。そろそろ自分の中で確信キーワードにしようと思っていた 矢先のことでした。 まず、広島県高田郡吉田町という地は、中国自動車道と出雲街道の間にあって 毛利元就の居城のあった地です。尼子軍三万を退けた地です。当時から郡都でした。 出雲街道を島根県に向うと県境に島根県吉田村があります。ここには古代からの タタラ和鋼製法が近代まで営まれてきた「菅谷たたら」があります。 もう一つの尾道発の出雲街道は石見銀山街道とも呼ばれています。 広島北地域に神楽団の結成が目立って多い背景には、加茂郡や吉備津神社がある ところからカモ氏の勢力が西日本で結集した地域だからと推理してます。 同時に愛媛に近い瀬戸内地域でもあるところから、確信キーワードにしました。 また1/26万の地図にありましたが、角倉了以の祖先の地が滋賀県の吉田 ということを知りました。今後意識して考察したいと考えます。 (情報88-1) 【中臣氏は常陸国鹿島神宮を主宰する神祇官の家柄で、大中臣氏、ト部氏、 あるいは吉田氏の先祖です。大伴、物部、忌部等とともに有名な氏族で ありました。それ故にその版図は広大で、大和、摂津、河内、紀伊、 美濃、讃岐、下総、常陸、下野、越前、越中、播磨、周防、阿波、 豊前、筑前、伊勢に及んでいました。ただし発祥地は大和です。】 (情報88-2) 全国吉田町交流事業が平成元年に発足してます。現在、新潟・埼玉・広島・ 愛媛・鹿児島・静岡の6吉田町が参加している。 嵐山古代史嵐山文学

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