高野悦子論  ー間人 彰 1998.2.2 加筆ー


omou ryoiki to shikosuru ryoiki
私達は『思う』領域と『思考する』領域を区別している。心情をありのままに吐露する時と、

自らを心情とは別の地点・角度いわゆる客観的立場から、理性(自ら良しとして育んだ)に即して、

『考える』という行為を実施する。時には他人の思考・思想を自らの言葉に翻訳して、またある時は

他人が述べた言葉・文章をそのまま引用する。未熟であるがゆえに翻弄されることを知りながら語り

展開して翻弄されている。それも踏まえて、彼女の思考領域についてこれから見て行こう。



人間は、完全なる存在ではない。不完全さを、いつも背負っている。

人間の存在価値は、完全であることに、あるのではなく、不完全であり、

その不完全さを克服しようとするところにあるのだ。

生命の発露とは、人間がその不完全さを克服しようとする時点にある。

『今、一番すべきことは、何か』を、常に考える。考えるべきことは沢山ある。

あまりに、理性とか合理性を中心にしすぎるのではないか。

生の燃焼は、不合理なものではないのか。

表面的に平穏にみえる中に、常に一触即発の状況があり、危機感を感じるべきであり、

より自己をみつめることが、必要となる。

肉体が生命をもつ。精神の存在意義も、肉体をおいてない。

青春を失うと人間は死ぬ。だらだらと惰性で生きていることはない。






雲にのりたい 雲にのって 遠くのしらない 街にゆきたい

名も知らぬ どこか遠くの 小さい街に。

雲にのろう 雲にのって ゆれ動く 青空をながめよう

そこには 小鳥のさえずりも 深緑の木々のさえずりも ないけれど

はてしない 空虚な広がりが ある

雲にのろう 雲にのって ゆれ動く青空を ながめよう。



旅に 出よう

テントとシュラフの入った ザックをしょい

ポケットには 一箱の煙草と 笛をもち

旅に 出よう

出発の日は 雨がよい

霧のようにやわらかい 春の雨の日がよい

萌え出でた若芽が しっとりぬれながら

そして 富士の山に あるという

原始林の中に ゆこう

ゆっくりと あせることなく

zoku omou ryoiki to shikosuru ryoiki その長い過程で真の己れを形成し発展させていく。それは苦しいたたかい

をである。が、それをやめれば私は機械になる。己れが己れ自身

となるために、そして未熟であるが故に私はその全存在をさらけ出さ

なければならない。


『思考する』領域での私そして民衆、さらに人間はつまらない醜い独りの弱い人間である。


お互いに何かを創造しようと生きているのだと、今思いました。人間

の歴史がはじまって以来、多くの人間は何かの力に支配されながら何

かを生み出そうとし創造してきたのでした。


高野悦子はこのように結論したのです。この前日、下宿の屋上から四方を山に囲まれた箱庭のような

京都の町並みを眺めて、『せせこましく立ち並んだ小さな家々、ばからしいほど密集している小さな存在』

を発見したのです。彼女の専攻は日本史である。少なくとも1200年の支配がこの京都にあった事実を

認識していたから、瞬時に現実を受け止めていたといえる。

そして、『思考する』領域から『思う』領域に戻った彼女は、「だからといって民衆の市民的、日常的

意識の中に埋没してしまうことにはならないと思います。」と言い切る。

あくまで逃避することを拒んだ。『思考する』領域においては断固として拒絶した。独りである寂しさは

『思う』領域へ彼女を誘う。そこではいつも逃避の扉が開放されていた。





大きな杉の古木にきたら

一層暗いその根本に腰をおろして休もう

そして独占の機械工場で作られた一箱の煙草を取り出して

暗い古樹の下で一本の煙草を喫おう



近代社会の臭いのする その煙を

古木よ おまえは何と感じるか。



原始林の中にあるという湖をさがそう

そしてその岸辺にたたずんで

一本の煙草を喫おう

煙をすべて吐き出して

ザックのかたわらで静かに休もう
ningen no yowasa 1
疲れ切った時には、安らかな床に就きたいのは人々の自然な行為であり、

自らの精神への謝意であり、そしてほめてあげたいとする穏やかな想いであろう。

すべての闘いは、幕を下ろす時を迎えたのである。

彼女が為すべきことは、口惜しさに震えるものの彼女の死によって終えた。

幾度か彼女によって別離を宣言された大学ノートに刻まれた過去の日記は

焼却されても可笑しくない状況のなかで彼女の意志でこの世に遺された。

何人たりとも知りえない独りの人間の核心が、まるで文学者が自然を

ものの見事に写実するように、鮮やかに刻印され遺されたのである。

その遺産を引き継ぎえなかった悔いがある。しかし伝えるべき使命はまだ

為しうることである。そうした熱き想いが消えることなく今も残っている。

次に、生真面目な人の精神世界に立って考察したいと思います。
ningen no yowasa 2

高野悦子が学園闘争に積極的参加をした初めの理由である。行動の原点といえる。

「まず、行動してみよう。自分の目と耳で確かめるために、そして、自分の世界をもつよう心がける。」

という無防備かつ見切り発車的な出発であった。

行動は肉体に依存する。精神の虚弱を補う為、肉体を酷使することを選択する場合がよくある。

しかしそれは、あくまで精神力に弾みをつけるだけで、精神の虚弱をオブラートするにすぎない。

その肉体について彼女はこう語る。 「人間は肉体を持っている。肉体は合理だけでは割り切ることができない。肉体を離れて、

人間は存在しないし、精神も存在しない。だから肉体は生命をもつ。」

しかし、彼女の肉体は過去から手痛い想いを抱かせ続けていた。一つは、心臓病によるクラブ活動の断念、

もう一つは「暴力による性行為」であった。にもかかわらず合理だけで割り切れない肉体の存在に依存する

よりなかった。彼女自身も気付いていたことだ。

誰が考えても無理がある。出発時点で大き過ぎるハンディを有していた。日記には添え書きがある。

「私は何かをみて大したことがないと、どうでもいいやと想い込む欠点がある。」

ここに一つの真理が隠されているのではないか。


「何をしてよいのか、わからなかった。」

「独りであることの何ときびしいことか。」

「自殺でもしようかなと思った。」

「そのまま眠ってしまうのが一番よかったのかもしれない。」

自分はあまりにも小さく弱く、何をすべきかわからなかったし、耐えることができなかった。

何の解決にもならぬことは知っていたが、その解決を酒に求めた。煙草に求めた。あるいは

「両手を出してワッととびこんでいける友(恋人)がほしい。」という恋しさから様々な幻想を描くことに

求めたのかも知れない。

「父と母の面前で煙草を吸って、両親と対決することができない。カミソリで指を切るよりも、

自分のほおを思いきり叩くよりも、それは幾十倍の勇気がいることだろう。」

行動を始めたが、その勇気は弱々しかった。バリケード封鎖の座り込みの後、下宿に帰り自分の城で

本来の自分にもどる。そして自己批判する。

「私には生きようとする衝動、意識化された心の高まりというものがない。」

「今までズッともち続けた感情」に苦しむのである。

「体内の血そのものも、本当に私の血なのだろうか」と疑うまでになる。

「惰性で毎日生きているんじゃないかな」「どうしたって惰性だなあ、生きていくことは、そんな気がする。」

と恋しさ幻想の後辿り着く。

肉体からは、すなわち行動からは何も解決されなかった。
精神の存在も確認できなかったと改めて知った。






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