● 角 倉 了 以 ●
略歴 1554 嵯峨天龍寺近くの角倉家の屋敷で吉田宗桂の子として誕生する ・・・・ 土倉業と民間の私貿易業を営む 1592 豊臣秀吉の第一回朱印船に加わる 1603 徳川家康の朱印状を得て角倉船をベトナム行きに随行する。 1606 保津川開鑿工事着工する。三月〜八月完成。 1614 高瀬川工事完成する。この年に没する。
祖先について 祖先は、鎌倉・室町期の近江武士といわれ、本姓は「吉田」。角倉は後の屋号です。 滋賀県の近江鉄道駅の愛知川と豊郷の間にある古い集落・吉田に住まいしていた。 近江佐々木氏の末流といわれています。 秦荘町が東に、能登川町は西に位置する。祖先が近江を離れたのは遠祖・吉田徳春 という人の時代で、足利将軍に仕えた後に、京都・嵯峨に退いたといわれている。 彼の曾孫が父吉田宗桂で、医術で知られた人物でした。父は土倉と呼ばれる金融業 も兼ねていて、同時に造り酒屋でもあった。 天龍寺との縁があり明に赴き医術を深めたともいわれている。その縁は三代にわたる。 明においてもその医業は盛名をあげたといわれている。 海外貿易にも通じ、室町期には帯座の座頭職も務めた。 治水工事などの労働力動員は造り酒屋の才量といわれる。
弟は徳川家康の側近 了以の弟吉田宗恂が医術を継ぎ、あの医学通であった家康の側近となったことが 貿易や治水事業を了以の意のままに為さしめたといわれる。高瀬川の工事費は 七万五千両という膨大な額で自費とされている。天龍寺船及び角倉船などの 海外貿易から貯えられた財であります。無論商人ですから、他の治水工事である 天龍川・富士川・鴨川・保津川等の物資輸送の通運料や荷の倉敷料でもとはとって いたとされています。 当時京都の三長者の一人でした。(茶屋四郎次郎、後藤庄三郎) 天龍寺船とは幕府によって官許された室町時代からの対明貿易船のことです。 天龍寺は臨済禅の京都五山の一つながら別に対明貿易商の一面を持っていた。 角倉船はなんども航行しているからその名があります。
了以という人 角倉という屋号の由来は、屋敷のあった嵯峨の土倉密集地帯におけるその位置から 命名されたらしい。 彼が領主支配に寄生するものとされるのは次の点においてであります。 ・ 淀川過書船支配 ・ 山城における天領の代官 ・ 尾張藩における木曾材の特権的処分 豊臣秀吉はそれまでの自由貿易を統制して、特定資本家に海外貿易の権益を与え 政権の経済的基礎を強めようと朱印船を試みたといわれます。 長崎・堺・京の三都市の富商七人の中に彼は選ばれた。 司馬遼太郎氏も指摘するように、了以という人は商いに才覚を発揮した人ですが 一介の商人ではなく、いわば天下人の偉業と思います。 実現は寿命の為にしませんでしたが、敦賀湾ー琵琶湖ー瀬田ー宇治を水路で結び 日本海と大阪湾を水運で繋ぐ計画を立てていたといわれています。 勿論財力の目途はあった事でしょう。 了以の長子素庵も偉人でルネッサンス期の優れた商人にたとえられます。 治水工事の頃には彼が主導的に運んでいたとされますが、その偉業の後に 徳川家康の鎖国政策によって父子の壮大な計画は断たれたことになります。 家康は彼らを含む大商人の膨張を次の世代に遺すことを恐れたとも考えられます。 大久保長安がもたらした佐渡の金量は70万両といわれます。一介の商人が 一つの治水事業にその十分の一を惜しげも無く注ぎ込むのは誰が考えても 脅威になろうかと思います。 ー追記まだあります。ー