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1998年、私が注目した遺跡発掘記事と感想メモが下記にあります。 ここ数年特に近畿において大規模な遺跡の出土がなされています。それは発表記事ばかり でなく、例えばアルバイト情報誌やチラシにおいて、発掘人材募集が目につくほどに 掲載されていることからも伺えます。発表された遺跡や出土品が各地の記念館に飾られ 保存されていくだけではなく、それぞれに活きた派生として展開することを願うのです。 ここではその一助になればと私の例を示したいと考えています。 1998年私の注目遺跡リスト data001-1998.2.24 木津・城山遺跡 data002-1998.2 吉備鬼ノ城メモ data003-1998.2.4 舞鶴・浦入遺跡(舞鶴市千歳浦入湾) data004-1998.3 西日本最大の縄文墓地 ― 阪南市の向出遺跡 data005-1998.6 王権示すガラス腕輪(ガラス釧)出土 data006-1998.9.8 熊野本遺跡(弥生中期―後期)から鉄器大量出土 data007-1998.10.13 奈良市大柳生町のツクダ遺跡で縄文晩期頃の墓地発掘 data008-1998.11 日本最古の石器?出土 data009-1998.12.21 琵琶湖南端の守山・伊勢遺跡 data001-1998.2.24 木津・城山遺跡 1998・2・24城山遺跡内で弥生時代後期前半(一世紀)の高地性集落跡が見つかる。 同時に、中国製の鏡の破片「破鏡」と国内最古級の「素文鏡」も発見された。 南山城地方では最大規模の高地性集落である。場所は木津駅から南東約700mの丘陵地。 一帯の約1800平方mの地域から、一辺が4―5mの方形や、直径約5・7mの円形の 竪穴式住居跡計13基が出土した。ふもとから約60m高い山頂部にあることから外敵に 備えた住居と考えられている。住居跡から北西約100mの所で、長さ約20mの埋葬用の 「方形台状墓」二基が見つかっている。墓から破鏡が、住居から素文鏡が見つかった。 南山城では他でも高地性集落は発掘されている。 この地域は東に伊賀上野・亀山・津への道があり、南に奈良と隣接する。木津川を溯れば 桂川・淀川・鴨川に通ずる。かって琵琶湖がこのすぐ北方に所在していたという。 淀川水系からの外敵なのか定かではないが奈良の入口に位置することは確かなことである。 data002-1998.2 吉備鬼ノ城メモ 既に砂鉄を使う製鉄技術を担っていた吉備国に秦氏が留まったことは疑う余地のないことであろう。 六世紀初め、京都では摂政になった聖徳太子との結びつきを深め広隆寺の建立や新羅・任那の 使者接待役等の表舞台での活躍がみられる。吉備国もまた対朝鮮半島諸国との外交の先導的役割を 担っていた。では、この山城は何を目的に築城されたのかが、次なる問いである。 私は、六―七世紀初めに築城が始まったと考える。大和国家に向けてのものではなく、 外交上の築城であったと考える。七世紀中頃朝鮮半島情勢は唐の介入が加わり不穏であった。 663年に白村江の戦いに敗れるや唐の圧力は最高点に達したと思われる。前後して九州や 四国・瀬戸内に築城が為されている。情勢判断に長けた吉備国が先んじて築城しても不思議 ではないだろう。この戦では吉備一国で二万人従軍させている。守りを固めることは当然であろう。 鬼ノ城が記録にないことは、大和国家の援助なしに築城されたことを意味していると考える。 造山古墳の規模は仁徳陵に匹敵する。国力の鼓舞といわれるが、むしろ外交上の理由で 巨大古墳墓を造ったと考える。吉備には必ず立ち寄るからである。 最後に残る問いは、桃太郎伝説である。地元豪族の祖先神は御友別であるが、吉備津神社に 納められているのは、大和から派遣され鬼神と対決して吉備を救ったとされる吉備津彦である。 記録では鬼神なるもの鬼ノ城にあって船を襲い吉備の民を苦しめ背丈高く、剛力でとある。 しかし、その正体は謎のままである。 data003-1998.2.4 舞鶴・浦入遺跡(舞鶴市千歳浦入湾) 紀元前3000年前の縄文時代前期地層から最古級の外洋用丸木舟が1998.2.4 出土した。他に年代を特定した大歳山式土器片や北陸産の土器などが見つかっている。 舟の大きさは、へ先から全長約4.6m巾約1m深さ約20cm。直径二mの杉を割り、 石斧でくり抜き焼け石で焦がしている。浦入遺跡では、縄文時代中期の地層からいかり用の石 や桟橋と見られる杭跡も出土しており、当地は船着き場だったと考えられている。 同時期の舟は長崎・伊木力遺跡や福井・鳥浜貝塚など五ヶ所で出土しているが、分厚く 巾広さの点で外洋用として最古級と判断されている。また北東約500mにある同時代の 集落跡からは、魚の骨、蛇紋岩製のけつ状耳飾り(富山湾周辺に多くある)や北陸産の 羽状縄文土器片などが見つかっている。 縄文人の広域的海上交易は定説になっているが日本海側で初めて出土した外洋用舟と 船着き場・集落跡などから日本海沿岸の交易起点と考えられる。浦入遺跡の今回を含む 一連の出土は日本海―京都盆地を結ぶルートの早くからの成立を確定したのではないか。 琵琶湖西沿岸ルートや鳥取―吉備ルートをふくめた日本海沿岸地域と近畿・瀬戸内海地域の 交易を実証するものである。(京都新聞記事より) 舟といえば、昨年の立冬を過ぎた頃、丹後の海岸にタコブネが漂着する記事があった。 『嵐山文学』9号で詳しく紹介したが、今回の丸木舟発掘の知らせは、昨年の重油漂着災害 も含めて、海流が人々の生活に深く関わっていることを告げている。地震が起これば津波情報 をいち早く流す。現在、交易の主流は飛行機と高速化した陸上輸送にあって、不安定な海上ルート は裏方に廻っている。しかし、縄文時代においては、ゆるやかな文化伝達という重要な役割を 担っていた。人々の文化受容に見合った緩やかさなのである。数千年というゆるやかな時の流れ をいとおしく想うのは、人間として許されないことなんだろうか。歴史上、激動期はあって 当然だろうが、現代社会のように常に激変し続けるのも以上といえないだろうか。 一人の一生が人間進歩でなくて文明進歩の流れに翻弄され姿が見えない。生命の軽視と 人間軽視の思潮はここから派生すると考える。 data004-1998.3 西日本最大の縄文墓地 ― 阪南市の向出遺跡 約三千五百年前の縄文時代後期後半とみられる一部環状の二百基以上の地面を掘った形の 土坑墓が見つかった。規模は約五千平方mで縄文時代の墓地としては西日本最大である。 祭祀に使ったとされる男性器を模した石棒も、西日本で初めて立ったままの状態で発掘された。 西日本では縄文時代の巨大な墓地は数少なく、当時の状況を見直す貴重な資料となりそうだ。 土坑墓は長辺約一・五mの長方形と、長径約一mの楕円形の二種類。L字形に配置された二基の 長方形の土坑墓を囲むように、十数基の楕円形の土坑墓が配列されているなど、直径七−八mから 十八mの環状に配列されたまとまりが三、四カ所確認された。墓穴から人骨は発見されなかったが、 関東や瀬戸内産とみられる土器の破片や石が詰められていた。 石棒は直径約十cm、長さ約三十cmで、うち約十cmは地中に埋まっていた。先端部分が 欠けており、元は五十−六十cmだったとみられる。 巨大な環状墓の可能性がある。秋田県鹿角市では、同時代の墓域で環状に配列された列石 (ストーンサークル)がみつかっている。列石のない遺跡もあることから可能性はあるとのこと。 今回の発見で東西の縄文文化にそんなに違いがないことがわかった。沖縄、シベリアなど 広域視野で研究する必要があるという。 また、同日、桜井の東田大塚古墳は、三世紀後半の最古級の前方後円墳と判明した。 data005-1998.6 王権示すガラス腕輪(ガラス釧)出土 京都府宮津市の北に隣接する岩滝町にある墳墓から出土した。 この地は天橋立の内海西岸にあって天橋立が真横から一望できる所です。その丘陵地中腹の 平坦地二百平方メートルの場所にある二基の台状墓の一つから出土したのである。 土器の文様から弥生時代後期後半(200年前後)と判明した。 ガラス釧は権威の象徴であり、丹後地方には勾玉(曲玉)などガラス工房が営まれていた とされている。鉄剣も9本ここから出土していて銅釧も13個見つかっている。鉄の多さは 当時においては注目すべきこととして丹後王国説が浮上してきたといわれている。従来北九州 とは隔絶した地域とされてきたが当地における出土品は逆に緊密な関係を示したのである。 同日付けの新聞記事にはもう一つ山城・椿井大塚山古墳が三世紀後半に築造されたと確定 されたとある。四段構造の前方後円墳で日本最古とされる箸墓や黒塚古墳と同時期に築造された ことが証明されたことになる。椿井は京都市の南端から奈良北部へ向けて流れる木津川が直角に 曲がる所に位置する。木津川が強固な防御壕になっている。つまり奈良方面を意識して築造された と考えられる。琵琶湖湖南より瀬田川そして宇治川を経て木津川へと船旅が可能である。 data006-1998.9.8 熊野本遺跡(弥生中期―後期)から鉄器大量出土 滋賀県高島郡新旭町熊野本にある高地性集落跡の発掘調査で明らかになった。 当時まだ製鉄技術を持たないことから日本海沿岸経由で中国大陸から伝わったとみられ 注目されている。遺跡から高島郡南部が一望できる。同時代に瀬戸内や畿内で普及して いた方形竪穴式住居跡十一棟も見つかり畿内との関わりの深さが伺える。昨年の調査では 巨大な円形竪穴式住居跡や大量の弥生式土器片が発掘されていた。鉄器は京都府弥栄町の 奈具岡遺跡の出土品と同種であることなどが推定の根拠とされている。 琵琶湖の湖南地域へと拠点が移っていくのだが、今回の発掘によってますます日本海ルート が明らかになったといえる。時代的にみれば丹後半島―琵琶湖―畿内が有力となった。 弥生中期には京都府向日市に水田跡が発見されているように稲作に鉄器が 使用されていたことが伺える。 data007-1998.10.13 奈良市大柳生町のツクダ遺跡で縄文晩期頃の墓地発掘 西日本最大級の土坑墓400基が見つかった。東北地方のものと似ているという。 墓地面積は約600平方mで一部環状に並んでいた。また土器片二万点石器二千点も 出土し、祭祀用と思われる石器もあった。石器材料は奈良県南東部県境にある二上山 産だという。阪南市の縄文墓地は五千平方mと最大であるが土坑墓の数はここが最大 である。BC1500−700年頃の土坑墓とみられている。 data008-1998.11 日本最古の石器?出土 宮城・上高森遺跡で約60万年前の火山灰地層より15−20cm下のオレンジ色の地層 より石核(せっかく)−小型石器の基になるもの−や石器・尖頭器など12点が出土。 北京原人が出現していた頃とほぼ同時代の日本人の起源を探る貴重な資料となる。 推定では78万年―60万年の地層とされている。なお石器の材質はメノウ。 国内ではこれまで、他に福島県二本松市の原セ笠張遺跡(60−40万年前) 山形県尾花沢市の柚原遺跡(50−40万年前)の石器が出土している。 前期更新世(200−70万年前)は地磁気の南北が逆になり環境なども 大きく変化する時代とされている。 自然放射線を吸収した火山灰層の石英を加熱した反応で測定する「熱ルミネッセンス法」 や地磁気の逆転現象を利用した「古地磁気法」などの解析がこれからなされる。 鈴鹿峠の北東部にある滋賀・多賀町の農地で密集度の極めて高い22基 の五つの環状になった西日本最大規模と推定しうる一部の土器棺群です。 今年六月にも六世紀末の住居跡一棟などが出土した土田遺跡です。 形式からほぼ百年の間に形成されたとされ、西日本では環状の四例目。 遺構面上からは磨製石斧・石棒・多数の土器片。木棺墓跡内から 人の歯や骨片も確認されている。 ここから南十kmあたりに、白州江の戦いで大敗後百済の難民を移住 させた地域があります。今も百済碑が残っていてそこには、戦勝した 唐の将軍が記した言葉が掲げられているという。不思議な話です。 1300年も人々はそれを拝んできたのです。 data009-1998.12.21 琵琶湖南端の守山・伊勢遺跡 正式名は伊勢遺跡。二世紀後半の大型建物跡出土 魏志倭人伝が邪馬台国の施設として示す「城柵」「宮室」「楼観」 の三施設がそろう遺跡としては佐賀・吉野ケ里と鳥取・妻木晩田 遺跡に次いで近畿で初めてだが三番目となり、出そろった。 縦板壁を持つ複層式大型掘っ立て建物とみられている。建物高さは 各柱穴跡の深さから推定して12mと判断されている。 今回調査までに、祭殿跡や柵列跡などが出土していた。21日発表。 シャーマン集団の存在が伺えると言う。 一説によれば京都市内で発掘された二世紀頃の遺跡で焼失棟跡の多さが指摘されて 当地が倭国大乱の舞台の中心と考えられている。今回の発掘は当時の勢力中心の 雄の一つが湖南地域と推定しうるとも考えられのかもしれない。 いずれにせよ、近畿においても、先記の広範囲に国を一望しうる楼観の必要性が あったということである。 AC 170‐180年 倭国に大乱あり、その後女王卑弥呼が出現して治まる。