惟喬親王の名前を初めて知ったのは「京都遊行」の小野篁(たかむら)
の項でした。今年の二月です。惟喬親王について触れる前に小野篁のことを
先に簡単に紹介します。
今日訪れた「岩戸落葉神社」(古名は堕川神社)は小野宮と呼ばれていますが、
その摂社に「篁神社」(正式名を御霊神社という)があり、そこに彼の霊を
土地の人が祀った。
「篁神社」はまた滋賀の志賀町の小野郷にも京都市内にもあるという。
小野篁は堕川神社のほとり岡の本に居住していたが養父との折り合いが悪く、
妻である小岑の死後その地を離れた。岡の本で余生を過したのが落葉姫で
彼女は朱雀天皇の第二皇女です。
紫式部の『源氏物語』に登場している。
妻小岑は畑蝉丸(秦氏ゆかり?)の娘で一子小竹丸を産んだ。
(小野姓真弓家之系図より)
堀川沿いの寺に紫式部と小野篁の墓が並んでいるという。
小野篁についての詳しいことはまた後ほどとして、その項の末尾に
「秦氏は、惟喬親王の重臣の
末裔」と書かれていたことで名前を覚えました。その末裔なる人が
小野篁の墓を建立しているのです。
実に千年後にです。その訳は分からないものではない。
これだけのことで凄く関心を抱くことになりました。
何かあるそう思いました。
余談になりますが、惟喬親王と小野一族については、もう少し先に
着手する予定でおりました。
その前に今まで秦氏一族を追っていたもう一つの意味を吟味したかったのです。
プライベートなことではなくて、純粋に歴史そのものとして考察して
みたいと考えていました。どういう意味があるのかという、
どちらかというと文学的な関心からくる疑問です。
ただ歴史の積み重ねを紐解くだけでは意味が薄いと思います。
ただ勢いというものがこういう歴史探索には必要なものですので、
並行しつつ考察してもいいかなと今は考えております。
ではまずは、日本史年表から整理してみましょう。
(一)小野岑守
小野篁の父である。彼の家系には小野妹子や元明女帝時代の中納言毛野氏
などの名士が出ている。
学問に身をいれ官途に就いたとされているが嵯峨天皇の即位後数年にして
漢詩の撰集を企てる。
822年、45歳で五参議の一人(文部大臣といったところ)となっている。
征夷副将軍・永見氏の三男。畿内観察使の判官、高岳親王の亮、陸奥・
阿波・近江国守を歴任した。
彼は参議の折に課役に苦しむ民の逃亡を考慮した公営田の方式を考案している。
(二)嵯峨天皇
嵯峨天皇は桓武天皇の子で、兄が平城天皇、弟は惇和天皇に兄弟で
三代天皇になり、大家父長制を整えた人です。文を好んだ天皇であり、
上皇として失態を見せた兄から学び上皇としても権勢を維持した人です。
嵯峨源氏と呼ばれる息子達を若くして要職に就かせた。
(三)小野篁
小野篁は父である小野岑守とともに陸奥国に随行し、青年期は武芸に
力を注いでいたが嵯峨天皇から啓発されて文才にも長ずるように
なったといわれる。827年大内記となり、蔵人・式部少丞を経て、
833年東宮学士に任ぜられている。遣唐副使の任を受けたのは834年です。
ところが2年後の出航の折に遣唐大使・藤原常嗣(参議)と衝突して
乗船拒否を為し、隠岐に流された。(嵯峨上皇の怒りという)
840年父が没する前に赦免されもとの位に戻された。
【 覚え書き 】
滋賀県の永源寺町は木地師の発祥の地と言われます。そこは惟喬親王の
晩年の居住地です。
永源寺町が掲載しているページには次のように紹介されていました。
「惟喬親王は承和11年(844年)第55代文徳天皇の第1皇子として
(母は、紀名虎の娘静子。)お生まれになり、第4皇子惟仁親王
(のちの清和天皇)は、時の太政大臣藤原良房の娘を母にお生まれ
になられました。父帝は惟喬親王を皇太子にたてようとしたが、
良房は自己の地位を利用して、外孫である惟仁親王に皇位を継がせ、
大政をほしいままにしようと野望を企てたことにより、
東宮は争いと混乱が絶えず、良房は目的を遂げるために惟喬親王の
存在が邪魔になり、秘かに亡きものにしようと企てていました。
文徳天皇は、このことを感知すると、惟喬親王に都を落ち延びる
ようにとお諭しになり、
惟喬親王は東宮のご安泰を願うためにも、弟惟仁親王に皇位を
譲るべきと御心に決め、都を後に山から山へと隠遁の旅に
お立ちになりました。
良房は、自己の野望を遂げるために数名の刺客を出して
惟喬親王を追わしめたため、親王は、これから逃れるために
足止めて休むところもなく、山から山へと数年彷徨い、
遂に人跡未踏の大木林立の小椋谷に逃れ込み、ここでようやく
親王の身辺にご安泰が得られたので、この地にご幽棲されることとなりました。
ご幽棲後の親王は、自ら実に粗末な暮らしの毎日で
ありながら、民人の貧しい生活に日夜御心をお痛めになり、
この辺りが立木資材の豊富なところから、ろくろを使って膳・盆・椀
などを作る仕事を木地師の元祖ともいわれる小椋実秀卿に命じて教えさせ、
民業の開発に力を注がれました。親王は、貞観元年(859年)に
小椋庄に入山され、貞観7年(865年)蛭谷に筒井八幡宮を建立
されるなどされたため、工人たちは親王を業祖と崇めるようになりました。
このろくろ製品が都に知れ渡ると、非常に優雅で使い易く、また、
何事によらず派手を好む平安朝人士の嗜好に叶って、ますます
ろくろ挽物が盛んとなり、全国から多くの工人が集まり、
遂に筒井千軒・こせち千軒・藤川千軒と呼ばれるようになりました。」
ここに記載されている「山から山へ」というのが北山一帯のことで、
大原・八瀬を含む古名小野郷から山伝いに西奥へと清滝川を遡られたのだ
ということになります。そのルートは小野一族の転進ルートでもあります。
周山街道にある小野郷から大森を経てさらに奥へ山越えしていくと
清滝川の源流近くになる芹生に到ります。そこから比叡と比良山系の
狭間を越えると琵琶湖の湖西に到ります。
そこは和邇一族の拠点というわけで、琵琶湖を船で横切り湖東の
近江に到り、そこから鈴鹿山脈の麓永源寺に辿り着くことになります。
足利幕府の成立後の護良親王の暗躍を重ねてしまいます。惟喬親王は
木地師を中心に修験道系鉱山師の全国網を掌握していったのではないか
と思います。それが野望であるのか、野望のはけ口であったのかあるいは
他に意図していたことがあるのかを調べてみたいと思います。
秦氏一族との関連については今考えられることは、彼が遺した津々浦々の
ルート上の礎石に七世紀までに秦氏が築いた痕跡があるということ。
つまり彼が輝くことによって、秦氏の歴史的な偉業がクローズアップ
されるということになるのです。
木地師発祥の地(永源寺町ページより)
「君ヶ畑にある大皇器地祖神社と蛭谷にある筒井神社は、
全国の木地師の発祥地として知られています。
木地師というのは、木地屋とも称し、近世末まで手挽き(二人挽き)・
ろくろなどの工具を使って、椀・盆などの木地を造った工人のことです。
ろくろ挽きは、平安時代文徳天皇の第1皇子であった
惟喬親王が巻物のひもにヒントを得て考えついたと言われています。
惟喬親王は都を逃れて、蛭谷、君ヶ畑に隠れてこのろくろ挽きの業を
土地の人々に伝授したといわれ、
この縁起により、惟喬親王がろくろ業の祖神として 両神社に祀られています。
木地師資料館の記録帳(氏子狩帳)によると、正保4年(1647)から
明治15年(1882)までの236年間45ヵ国に、木地師の名が延べ
45,143人記されていおり、また、君ヶ畑の金竜寺には、
元禄7年(1694)から明治23年(1890)までの200年間の巡国記録で、
30ヵ国延べ11,531人に及ぶ木地師の名が記載されています。
君ヶ畑の金竜寺は、惟喬親王が建立した曹洞宗寺院であり、
君ヶ畑という地名も、親王がこの地で没したことに由来していると
いわれています。金竜寺では現在でも不定期的ですが、
全国から木地師が集まり親王の法要が盛大に行われています。」
木地師の頭領は彼等の特権由緒を示す綸旨免状を有し、
惟喬親王を祖神としているがその文書は偽文書といわれる。
(中世末期に書かれたらしい)
彼等は明治まで祖神への奉賀金をとる習慣があったと
日本史辞典には書かれていました。
児玉党平安末期から鎌倉にかけ武蔵国で活躍した武士団の一つ。
惟喬親王についての現在までの歴史メモは以上です。
ー 続く ー