古代メモ \ ー 記載事項リスト ー 四百万年前の化石70種/ダイダラボッチ/鴨都波遺跡方墳/ 四世紀の外洋船団線刻発見(出石町)/「朝鮮通信使の時代」/大野東人/ 真田氏の続報/滋賀・能登川の馬鋤/虚空蔵菩薩/真田氏発祥の地/ 前頁に予告しました「不思議な出来事」については次のページで扱うことにしました。 つれづれに【 残照 】 [ MEMO 087 ] 2000.6.12 四百万年前の化石70種 TOP 四百万年前についての概要はこちらを参照して下さい。 さて書こうとしたら、新聞の切り抜きを捨てられていました。記憶のままに・・・ 場所は、大分県安心院町、国東半島の南西端で別府・湯布院の北にあります。 発掘品の研究及び成果公表は安心院町の教育委員会と滋賀県草津市にある県立博物館 共同で為されました。これは、グローバルな研究といえます。 当時の生態系を明らかにする化石群が発掘されたということになります。 カメなどはその後進化していないことが実証されたといいます。 化石70種1000片が今までに出土し、1995年地元の教員によって発見された ゾウの化石以来五年の歳月を費やしての成果でした。 滋賀県の琵琶湖一帯で当時の地層研究がなされていたことから、似た地層ということも あって今回の共同研究が実現したといいます。 生物は東南アジアの亜熱帯に生息する生物と同じと考えられています。 今までは原人そのものでさえ架空の生物のように思えていましたが、これほどの 多用な生物の化石を見せられると、古代人と同様に身近な人類の祖として感じます。 同時に、1997年に一躍縄文時代や旧石器時代が注目された背景が理解できました。 私にとって、福井の鳥浜遺跡が描き得る最古の時代素材でしたから、驚きです。 [ MEMO 086 ] 2000.6.10 ダイダラボッチ TOP 「だいだぼっち」(大太法師)の名称で「世界大百科事典」(平凡社)には載って いますが、様々な呼び名があります。 ここで扱う大太法師とは、巨人信仰の思想からでた伝説上の人物のことです。 大太法師について検索してメモしたものはこちらに掲載してます。 ダイダラボッチ伝説と「真田」という地が関わっているかもしれないと聞いたので 調べてみました。なにしろ背丈2m越す雷電の出生地でしたから。 この伝説は各地にあると言いますが、主には関東・中部である為か、知りませんでした。 西日本では強さ(大太郎)、関東では怪力(巨人)を意味するとも言われているようです。 常陸国風土記の巨人足跡伝説、上野地方の榛名山生成伝説など、古代人は山岳湖沼などの 雄大な自然物を巨人が作ったと考えたのが始まりのようです。 素朴で実に幼稚な大胆な発想が仏教にもあり、民間説話においてもみられます。 昔話ですが、京都に比叡山と愛宕山が背比べして譲らず「ぽかっ」と比叡が愛宕の頭を ぶって出来たタンコブ、その高さ分愛宕山が京都随一の高い山になったと聞いたこと がありました。人々はそんな理解を自他共に許していたのです。 巴御前の大力伝説は「平家物語の女たち」にも書かれていますが、当時においては ありうる話のようです。現在でも女子プロレスラーがいるのだから、社会的に特別な 階層が成立していれば、日々の訓練で可能なことです。 比叡山が噴火して愛宕山まで噴火物を飛ばすことは大いにありうることですし、隕石が 落ちたとも考えうることです。古代人が語り継いだ話として残っているのかもしれません。 ダイダラボッチ伝説は巨人説話の一つとみて、日本だけでなく世界全体で捉えた人もいる。 巨人族を七つの発生類型にまとめられています。例えば、常陸国風土記の足跡説話は 「一つの民族をめぐって異常な自然的または生活的環境があった場合、そこから推量 したり、回想したりする結果作り上げられる巨人」といい、播磨国風土記の説話は 「神話の詩的想像力がはたらき、文芸上の興味から生みだされた巨人」に含めている。 他には、「実在民族の身長を誇大にした巨人」などがある。 雷電の身長は二mを越えず実際はそれ以下だったかもしれません。同様に桃太郎伝説の 元になる鬼ノ城の主もそうかもしれません。とにかく見たことのない巨人で強いのです。 [ MEMO 085 ] 2000.6.6 鴨都波遺跡方墳 TOP 葛城氏の本拠地である奈良県御所市で四世紀中頃の方墳から三角縁神獣鏡四枚、刀剣 人の上顎の歯、装飾品等が発掘された。葛城氏が記紀文に出てくるのは四世紀末からで それ以前に相当する勢力が既に整っていたことが分かった。 葛城氏といえば秦氏の祖とされる弓月君の家臣を救出に出向いたことで知られる。 古代メモの「寝屋川市と秦氏」の項で調べた際に葛城氏のことが触れてあったのを 読んだことがある。大和氏の秦氏研究では、葛城氏によって秦氏と波多氏が関係を 結んだとされていて、弓月君を祖とするのは波多氏であるとしている。 古代の氏族は歴史上では一氏族の誰それとして名を残すが、(後の源氏・平氏もそうだが) 帰化系氏族も多くなると扱い上、淀川水系の人々を「秦氏」と総称していたと私は 考えています。 ともかく、葛城氏にまつわる史書の記載は根拠を持ったことになる。 この図にあるように、大阪・八尾市に最も近い地域に勢力を持つ葛城氏は、大阪の河川 航路を掌握していたとも考えられます。平群氏もまたそう考えられ、大和政権の 朝鮮半島政策担当豪族といわれている所以です。 [ MEMO 084 ] 2000.5.31 四世紀の外洋船団線刻発見(出石町) TOP 四世紀に描かれたとされる15隻の外洋船団と思われる線刻画が出土品である木製品の 中から発見された。この出土品は1989年に兵庫県出石町の袴狭(はかざ)遺跡から 発掘されたもの。丸木舟を基に波よけ板などを付加した「準構造船」とみられている。 丸木舟といえば一昨年、舞鶴・浦入遺跡(舞鶴市千歳浦入湾)で、発掘された。 「紀元前3000年前の縄文時代前期地層から最古級の外洋用丸木舟が1998.2.4 出土した。他に年代を特定した大歳山式土器片や北陸産の土器などが見つかっている。 舟の大きさは、へ先から全長約4.6m巾約1m深さ約20cm。直径二mの杉を割り、 石斧でくり抜き焼け石で焦がしている。浦入遺跡では、縄文時代中期の地層からいかり 用の石や桟橋と見られる杭跡も出土しており、当地は船着き場だったと考えられている。 同時期の舟は長崎・伊木力遺跡や福井・鳥浜貝塚など五ヶ所で出土しているが、分厚く 巾広さの点で外洋用として最古級と判断されている。」 推測だが、船団の母船の長さ30〜40m、その他の舟の長さ十数mとされていて 充分に国内で製作することは可能だったと思われます。 また、当地出石町には、古代朝鮮の新羅の王子「天日槍」の渡来伝説があって 併せて注目されています。 [ MEMO 083 ] 2000.5.28 「朝鮮通信使の時代」 TOP 京都新聞「にちよう版」という別冊があります。昨年一年は古代メモで大いに啓発を 受けた梅原氏の「京都遊行」が掲載されていた。今年は代行として、「朝鮮通信使の 時代」が掲載され、今日で21回目です。古代メモでも一度取り上げたことがあります。 今朝読んで去来したことがあります。 彼らが江戸まで街道を往復した理由は参勤交代のなごりだけなのだろうかということ だった。岡山県牛窓町に彼らは寄港して宿泊している。そこで演じた「小童対舞」が 唐子踊として残っている。三重県津市の八幡神社にも残っていて、分部町の唐子踊だ。 これの記録は1650年に遡る。鈴鹿市東玉垣町にもある。大垣市竹嶋町の曳山行列 もそうだが、明治になって廃止されたという。 朝鮮民画メモとして次のように書かれている。 「いわゆる李朝民画には民俗学の宝庫といってよいほどカラフルな生活文化が充満して いる。朝鮮王朝時代の後期、中央政府によって身分を保証された画家ではなく、民衆と ともに生きてきた放浪画家は大地に根を張った農民や漁民たちと意気投合し自由奔放な 絵を描いた。両班たちから無視されても民衆の生活に密着し、生活を彩る絵を大量に 描いた。彼らは農民たちに娯楽を提供する放浪芸能集団と共に夏には漁村、秋の農村 を巡った。」 このメモに書かれたことが発起となって、走馬灯のようにぐるぐる頭の中を巡るものが あったのです。理屈ではないです。秦氏を通して一年余り追い求めてきた一つの想念が 浮かんだのです。パイオニア魂なるものです。 アメリカがそうですし、ベンチャー企業の繁栄、民族大移動で生じたヨーロッパ、日系人 華僑の人々、あるいは世界経済を席巻している国際企業、身近に言えば、旅をこよなく 愛する心の先にある、気骨なるものの源にパイオニア魂があるように思えたのです。 それを愛するが故の追求ではなかったかと。他にも追求の理由はあります。だけど 今浮かんだのはそのことです。ルネッサンスに憧憬するのもそうです。それがいかに 大切なことかを表現したいということだったと思います。 さて、古代メモに戻りますが、上田氏が指摘しているように、朝鮮通信使の京都ー江戸 間の往復の真意は民衆レベルの外交にあったと私も考えます。その意図した理由は これからの下調べが必要ではありますが、古代より帰化人が辿り根付いた先々での 親交にあるように思っています。それは芸能を通した文化の交流であろうし、最も 確かな平和外交であったろうと描いています。中世以降の秦氏縁の人々もまた政治の 舞台から身を引き庶民芸能に携わったことは知られるところです。 [ MEMO 082 ] 2000.5.20 大野東人 TOP 「ハタ」「オノ」と同じく「大野」という地名が古代メモを辿る上での私のキーワード です。「大野」については、今まで福井の大野の関連だという曖昧な捉え方で放置して いました。司馬氏の「街道をゆく」26ー嵯峨散歩・仙台・石巻ーの中に昨日、大野東人 という人名を見つけ読んでみると、岩手県にある大野村の地名由来に深く関わる人物と 思い及びました。他の地域については今のところ難ありです。 大野東人の父は大野果安といわれ、壬申ノ乱(672)の敗者の側にいて、近江朝軍の 将軍であった。従って彼の官界での出発は相当低い地位からと推測されます。 近江近くに大野という地名は岐阜と滋賀の境にある。彼の出所はその辺りと推理します。 彼の没年は742年、生年は不詳です。奥州鎮守の任に赴いたのは、司馬氏の推測では 家計の窮迫から抜け出す為の志願というが、その通りだと思う。 ー参考までー 665年百済の男女四百人余りが渡来し、近江神前郡に土地を与え住まわせた。 666年には二千人余りが渡来し東国へ、669年には近江蒲生郡に700人余り 住まわせている。 彼は、714年半島を手中にした新羅の使者が来日した折、その為だけにわざわざ 奥州から騎兵集団を連れて都入りしている。地位は正七位上と低いのにである。余程 武勇に優れていたと思える。729年陸奥鎮守将軍になる。異例であり、藤原不比等の 息子が陸奥に大使として赴任した折に見出されたことも注目される。 後日談として、彼の没後20年に藤原氏が節度使として赴任した際に一つの碑を建てた。 その碑文には大野東人のことが主に記されていたという。 [ MEMO 081 ] 2000.5.16 真田氏の続報 TOP 実は先のメモを作成した折に、真田町に当地の松尾の事をお知らせしました。 丁重な返信とお礼のメールを昨日受け取りました。予期せぬ事で嬉しかったです。 古代メモを進めていく中で、かような悦びがあろうとは予想外でした。 かくあるべし、そう思います。ともすれば地域内でまとめられる町史であり 歴史研究ですが、ボーダレスな歴史解釈も今日ネットで可能になったと思います。 無論歴史だけでなく、他の分野からの考察も積極的に受け入れていくことが 歴史研究には課せられていると考えます。学究に拘ることもなく。 連繋したい地域は沢山あります。歴史だけでなく文学もその他のことでも。 将来的には世界に通じさせることも夢ではないです。2000AREAの発展形が お蔭でうっすら見えた思いです。 隣町の東部町のこと 一服がてら、空想話をします。 ・東部町といえば雷電という江戸期に名を馳せた大関がおりました。身長1m97 体重169kg戦績254勝10敗優勝26回といいます。何故大関なのか? ・日本で1〜2の大きさの方墳があります。頂きは8m四方。古墳時代のもので 誰の埋葬が全く不明です。総じて帰化人なる人々の古墳は京都においても不明と されています。 ・金井の火祭りがあります。京都嵯峨釈迦堂の火祭りの形に似ています。 ・百体観音という石造物があります。江戸期以降に作られたとされています。 嵯峨を山麓にする愛宕山の登山道に地蔵さんが小刻みに置かれ、高度を知らせます。 住まいする人々の中にある風土観や継がれた魂の欲するところが伺えます。 強引に私の抱いている推理に導く捉え方ではありますが、えてして実際合うことも あって、この感覚は捨て難いのです。東部町の名物といっても十程度ですから あながち空想とはいえないかもしれません。 この上に書いた大野町についても、司馬氏が何故、嵯峨と仙台・石巻を合わせたか 読んでみて初めてそれとなく匂うこともあるのです。意識は明確でないものの いざ合わせるとなると、それなりの意図が、ある確かさを持って発露される。 つまり言葉として書けないことに対して、見えない表現をしたくなるのでは・・・ [ MEMO 080 ] 2000.5.12 滋賀・能登川の馬鋤 TOP 四世紀末から五世紀初めとされる馬鋤が滋賀県能登川町の石田遺跡から発掘された。 専門家によるとおよそ百年伝来の時期が早まるという。 能登川町は有名な水郷のある所で、対岸に安曇川町があります。安土は隣町です。 私の持論である福井の鳥浜人南下説から類推するなら技術的にも充分ありうることです。 渡来人の知識からでも現地生産は可能だということです。木製品という残存条件の厳しさ から当時の農耕技術の高さが証明されなかったに過ぎません。 能登川の南に秦荘町があります。四世紀末から五世紀初めといえば弓月君が多くの人々と 渡来してきた時期であります。歴史の解明は出土品を待って徐々に確かさを増す。 推理は考古学者ではなくて他の分野の人々によって展開されるべきものであろうと思う。 追記2000.7.28 最古(四世紀後半)の絹糸装飾の木盾が発掘される。 モミ材で糸を通す穴が無数にあり、実用性とともに装飾性も高く革盾に限らず 木盾にも発展したとみられている。 黒漆も油煙などから精錬した不純物の少ないものを使用しているという。 穴に絹糸を刺し縫いする手法の確認は五世紀前半とされる奈良南郷大東遺跡より古い。 [ MEMO 079 ] 2000.5.8 虚空蔵菩薩 TOP 京都嵐山に法輪寺があります。十三参りで江戸期より全国から詣でる人が絶えない。 この寺は、松尾神社とほぼ同じ頃に(八世紀初め)行基によって、元明天皇の勅願により 創建された。後、空海の弟子道昌が829年に中興している。その時虚空蔵菩薩像が 本尊として安置されました。彼は秦氏の血脈を引く人であるという記載が本にある。 これは、初めて知りました。 追記00.6.27ー空海の教えによって百カ日の虚空蔵法を修し、一木を彫刻して虚空蔵を 安置したという。元は葛の井寺という。道昌は讃岐の秦氏の出身といわれる。 また彼は、大堰川の橋や井堰も設け、太秦広隆寺をも中興しています。いわれとして、 秦氏が酒造や飲料水に使用した星落井という井戸があります。深い嵐山の谷が 側を流れています。この周辺の滝水を利用して今でも流しそうめんが食せます。 下記との関連は見出せなかったのですが、千曲川一帯に一遍上人が晩年、佐久武士 大井郷を領した大井太郎という人に招かれ住まいし布教したと司馬氏は書いている。 鎌倉期のことです。この一遍上人は伊予の道後で生まれ、土地の豪族河野氏の出という。 序に、真田氏の前身は海野氏の支族で、平安末期千曲川一帯を支配していた滋野氏の 配下が海野氏だと書かれていました。滋野党といって、児玉党と似た集団でしょう。 なにしろ自ら滋野天皇と称していたとする文献があるそうです。 [ MEMO 078 ] 2000.5.7 真田氏発祥の地 TOP 長野県小県郡真田町は浅間山の西に位置する町です。真田町の情報政策課ページに 次のミステリー話が掲載されていました。 『 松尾城は真田の里の北の守り、菅平高原へ登る144号線を直下に見下ろす、 堅固な山城です。城跡は、松尾古城や角間の城ともよばれています。 しかし、なぜ松尾という名前なのか? おそらく真田幸隆の築城ではないかというくらいしかハッキリわかっていません。 不思議なのが、上田市にある長野県立上田高校は、旧校名を「上田松尾高校」といい ました。そして、上田駅から程近いあたりも、昔は松尾町、と言いました。 現在の上田高校の建物は真田昌幸が一時期住んだ屋敷跡で上田城の三の丸にあたるところ。 上田城は「尼が渕城」、また「松尾城」の別名をもっています。 城を築いた場所が、千曲川の支流の“尼が渕” なので、納得するのですが、松尾城と 呼ばれる謂われが明確ではありません。 城跡には、三峯社と虚空蔵菩薩の祠がある。と郷土史には書いてあるが、 虚空蔵菩薩の祠?をのぞいてみると、そこに鎮座しているのは顔の部分が破損した、 あんちら様に良く似た菩薩像でした。 松尾古城近くの角間地区で大切に祭られていた、安知羅明神(あんちら樣)の木像は、 真田幸隆あるいは幸村の少年時代を写したものといわれています。 松尾城はやはり真田幸隆が築いたものなのかもしれない・・と思いつつ、木の間隠れに ニホンカモシカの影を目にしながら下山しました。』 今朝、いつもより二時間早く目覚め、長野・戸倉上山田温泉への旅という番組を たまたま見ました。無論途中から見たので場所は終了後に知ったわけです。 印象があったのは、お寺の天上に龍が描かれていたことで、嵐山にある天竜寺とよく 似ていて、さらに次の場面で上山田と書かれた半被を見て、取りつかれた。 上山田というのは嵐山ー松尾間にある旧地名です。映像の風景も似ているとも思った。 番組終了を待って場所を知ると、好奇心良く、地図で調べると千曲川沿いで東に浅間山 がある。そして、真田町や東部(とべ)町が山麓にありました。取りつかれている私は 思い巡らせます。真田町は真田雪村、東部は部と付くことから秦氏関連かと直感する。 真田氏は以前ここでも触れましたが、奈良吉野近くの橋本市に後に居住していました。 古代に帰化人集落のあった地域です。秦氏ゆかりの地?と押さえていました。 次に検索で真田町を調べ上記の真田氏発祥の地と知ったのです。さらにです。 「松尾」「虚空蔵菩薩」の記載があるので驚きました。松尾神社は秦氏創建、 虚空蔵菩薩は近くの法輪寺のご本尊です。 この松尾城跡のある地域は京都の嵐山ー松尾の地形に似ています。(写真より) 私が東京に就職してから初めて、誘われて、登った山が浅間山でした。 ということで、連休明けネット生活再開に当たって幸先の良い情報を得ました。 ー 続く ー 嵐山古代史古代メモ110111213
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