
古代メモ [ ー 記載事項リスト ー 大阪府寝屋川市と秦氏/千二百年前の一通の手紙/ 斎宮の遺構ー京都西京商高グランド内で発掘ー/斎宮女御徽子(きし)/藤原高子の生涯/ 大江王の伝説/小野小町の悲恋3追記/一服話しーこれからの展開ー/ 大化の改新の前後1/八世紀九世紀/小野小町の悲恋2/ 小野小町の悲恋1/2000年の予定/ 前頁に予告しました「不思議な出来事」については次のページで扱うことにしました。 つれづれに【 残照 】 [ MEMO 077 ]2000.5.4 大阪府寝屋川市と秦氏 TOP 古代豪族の分布をみると、寝屋川市一帯は中臣氏の勢力圏に含まれています。淀川水系 に沿う豪族の旗頭のようです。大化の改新当時に鎌足の別当が対岸の三島にあったと いいます。寝屋川市の歴史ページをみると、茨田堤が五世紀初め日本で最古の堤として 作られたとあります。以前から当地に秦氏縁の地名が多くあるのに注目していましたが 古墳なども多く、外洋可能な大型古船の一部が発掘されたりしています。 継体天皇の時代に尽力した淀川水系の波多氏もこの一帯の氏族です。上古をみるかぎり 京都の太秦と当地は最も秦氏ゆかりのものの多い所といえますし、当地の方が古いと いえます。秦氏が淀川を遡り京都に定着したといわれているのはその為です。 京都を含む淀川水系の帰化人達氏族の総称として秦氏は捉えられ、かれらもまた弓月君を 祖と崇め誇り競い合い、連合し、時の豪族達に利用されたと考えます。 競い合うという推理の具体例は最近読んだ「秦氏とカモ氏」の中で展開されています。 京都の秦河勝は七世紀中頃までの太秦(秦氏の長という意味)で、九世紀初めまで歴史に 登る太秦は当地に勢力を置く氏族であります。天武ー桓武時代の豪族勢力分散施策は 秦氏に限らず神社などに対してもなされていました。恐らく都の遷都などもその類だろう と考えます。権力と経済力は一対にはならなかった時代でもありました。制度が先行する のはそういう時代背景があるからでしょう。 [ MEMO 076 ]2000.4.24 千二百年前の一通の手紙 TOP ー「出土文字を読む13」という京都新聞記事よりー 『 古代の下級役人が出張先から勤務施設である秋田城にあてた千二百年前の一通の 手紙が、ほぼ完全な状態の漆紙文章で秋田城跡から発見された。 秋田城に勤める「竹田継依」という人物は、秋田城から南へ、日本海沿いの象潟近辺に 公務出張した。公務は、秋田城が管理する製塩用の鉄がまの検収である。古代の製塩は 土器で海水を煮詰めて結晶塩を取り出し、仕上げに鉄がまでいり、水分を完全に除く 方法を取った。手紙の内容は勤務先への問い合わせであった。 「無事にかまの一つの検収が終わりました。もし、このほかに未収のものがあるならば、 ぜひお申し付けください。この手紙をちょうど出羽国内を巡回している秋田城の役人に 託しますので、よろしくお取り計らいでください。」という文面である。 手紙の書き出しは「謹啓」で始まり、結びも「謹啓」となっている。・・・・・・ 象潟の駅家から早朝の第一便、午前六時ごろに差し出したことが記されている。・・・ その表にはあて名と差出人もはっきり読み取れる。あて名は「介御館 務所」とあり、 出羽国の次官の事務所あてであることが分る。 この手紙を左から巻いて、右に書き止め、紙の右端を下から真ん中あたりまで細く ひも状に切って、これをひもとして巻き、その上に封印のしるし「封」の文字を記す。 ・・・』文面からはひたむきな実直さが伝わると執筆者は結んでいた。 桓武天皇の偉業の一つ「地方に赴任した行政官の手腕を引き出したこと」を証明する 文面と私は思いました。奇しくも昨日、奈良において当時の官僚たちの早朝からの業務 を偲ぶ体験催しの映像が報道されていました。 [ MEMO 075追記 ]2000.3.23 追記・・ 斎宮の遺構ー京都西京商高グランド内で発掘ー TOP 角田文衛氏の遺構に対する見解が記載されていました。 それによると、邸宅に当時住んでいたのは、三条斎宮であった恬子(やすこ)内親王がその当時 伊勢の斎宮の任にあった数人の内親王の中では最も妥当だという。 彼女は紀名虎の娘紀静子を母としていた。861〜876年まで在任しています。 他界したのは913年。その後は妹・掲子(ながこ)内親王が30年住んでいただろうという。 ただ、その後についてはより不確かであるともいいます。 [ MEMO 075 ]2000.3.19 斎宮女御徽子(きし) TOP 斎宮女御徽子(きし)についての記事が掲載されていました。 十世紀の斎宮についてのことが記されていました。 徽子八歳の時、朱雀天皇即位にともなって、代38代の斎王に卜定され、 直ちに御所内の初斎院(潔斎場)に入り、毎月朔日の精進潔斎後の伊勢太宮遥拝、 院内の催事、数々の習い事や歌人としての基礎を教えられる。一年後、今度は 御所をはるかに離れた嵯峨野に野宮を構え、さらに一年の潔斎を積み重ね、 御年十歳、いよいよ伊勢への群行に向かうのです。滋賀の幾つかの頓宮を経て 鈴鹿峠を越える総勢千人を超える行列道中という。 彼女はその任にとどまらずその後歌人や後宮に迎えられたりという生涯を送る。 49歳の時は天皇の反対を押しのけ娘に随行して伊勢への群行を為した異色の人。 斎宮神社というのが車折神社の近くにあります。松尾大社が管理しているといいます。 以前甲賀村に松尾という地名がありましたが、例の芭蕉の姓の由来の話ですが 群行途上に立ち寄る頓宮の一つに甲賀村の頓宮がありました。松尾大社から由来した 松尾という地名かもしれません。斎王は伊勢と賀茂神社の二種類ですが、秦氏と賀茂氏の 繋がりを考えますと推測しうることではあります。 ー「文学日誌」2.27より これを書いた半月後に、当時の斎宮邸宅遺構がほぼ完全な形で発掘されました。 驚いたことは私だけでなく、その記事を書いた教授も同じだろうと思います。ただ 以前から発掘がなされていたので予備知識として執筆者は得ていたかもしれませんが 私はなんら知らないことで、またしても異常接近にうち震えたものでした。 偶然目にした記事だから一層驚きました。 斎宮女御徽子(きし)は、藤原高子が没して四半世紀後に生まれた人です。 藤原高子も同じような邸宅で過したことでしょう。平安中期の皇族の邸宅です。 絵巻物ではなくて実物大の邸宅庭園の再現が可能になったのです。 小野小町も同様の邸宅に住んでいたことでしょうし、より身近になりました。 [ MEMO 074 ]2000.2.20 藤原高子の生涯 TOP 842年藤原良房の姪としてこの世に誕生する。奇しくも惟喬親王と同年であります。 双方の氏族にとってこの上ない喜びであっただろう。高子は良房の期待通り才色兼備な 女性として成長し、17歳になって「五節の舞姫」(将来の后を披露する催事)に選ばれた。 小野小町はこの時五十路手前であっただろう。まして高子の存在は注目せざるえない相手方 の切り札であります。この翌年に文徳天皇が若くして亡くなった。惟仁皇子即ち清和天皇の 即位です。初めての9歳天皇の誕生です。時に在原業平36歳、すでに宮中でプレイボーイ として名を馳せていた。 在原業平は平城天皇の皇子阿保親王の五男であるが、父阿保親王は承和の変で密告者として 疑われる行動をとった後すぐに世を去った人である。片や良房の権勢が飛躍する時期を 彼は見ていた。人目ぼれといわれている。恋焦がれる歌も残るが私は敵視する相手方の 切り札としての意図的接近をみるのです。まして、小野篁の後半生を自らと重ねている。 彼は剛の人物、業平は逆に柔の人。東下りの任は勤めるが常に宮中に心をとどめていた。 良房にとっての切り札は藤原一族の切り札でもある、後継者たる基経の権勢確立には 何がなんでも切り札を堅持しなくてはならない。高子の恋の終焉は残されていないので 定かではないけれど、彼女が五十路前に恋に狂乱したことを思うと、その恋の終焉が 怨念として燃え上がったものと想像できます。 小野小町から次の世代、すなわちさらに次の世代に当たる清少納言たちと小町の間の 女性史の経緯を藤原高子の生涯に伺えるのです。詳しくは別途考察したいです。 【 参考に 】ー童話とぽえむからー (3)『 小町〜高子〜式部 』 「 わびぬれば身をうき草の根をたえてさそふ水あらばいなんとぞ思ふ 」ー小町ー 読み人知れずの時代に宮中では歌人が集い心安だてに歌を交わしていた。言わば戯れの 気持ちが先行する中での小町の相手へのいなしの返歌とされる説がある。 つまり一夫多妻が横行する中でのうちすてられた孤独な女性の悲痛な想いがこの歌に 込められているというのです。恋に浮かれた思いの中で詠まれたのではないのです。 小町だからこそ、そうした女性の悲傷を歌で代弁できたと思います。 次の世代である清和天皇の皇后になった藤原高子においては、晩年女性の自立に目覚め 皇后の位を廃される覚悟で恋に望んだといえるのではないか。しかし晩年においてのこと。 さらに次の世代である和泉式部や清少納言になると、恋愛という行為と文才表現という行為の 両面で一夫多妻の世に挑んだ気がしているのです。言い寄る相手へのじらしともいえる拒絶 行為や相手を選ぶだけではなくて批評すらするというまでに至るのです。 これらは、ごく一部の選ばれし人々に限ったことであります。しかしそこにはすでに 今日の「ソロ」という志向の芽はわずかながらも伺えるのではないでしょうか。 そのような芽が育まれた背景には、女御でありながら宮中で働いていたことがあります。 乳母や養母が他にいたからではあります。 [ MEMO 073 ]2000.2.19 大江王の伝説 TOP 住吉大神に関する伝説に、大江王一族の衰滅の話があります。 景行天皇の皇子である大江王の姫に大仲媛がいて、この方は仲哀天皇の妃でした。 忍熊・かご坂の二王子を残して他界された後、息長王の娘(神功皇后)が皇后になった。 仲哀天皇が敦賀の宮に行幸されたとき、熊襲の反乱を知られ、その背後に新羅の支援が あるときかれ、長門に出向き後に息たえられた。・・・・ 後に神功皇后は応神天皇と共に大和に戻られるのだが、先の二王子が彼らを迎え撃つことになった。 慣例であった戦いの狩の途中、かご坂王子が猪に襲われ不慮の死を遂げて東国の兵士は戦意を 喪失、陣容を立て直すものの敗北して近江に逃げるが瀬田川にて忍熊王子は自害し果てた。 彼らを援助した大江王一族は攝津より勢力を失い衰滅したという。 これとよく似た話は宝塚の売布神社に関わる伝説にもあります。時代はずっと遡りますが 豊受大神についての話です。 継体天皇時代の筑紫の反乱と似ています。神功皇后の新羅征伐がでっち上げであるとすれば つじつまはあってきます。大江一族はその後東国ないしは丹後へと居住を移すことと推理します。 [ MEMO 072 ]2000.1.21 小野小町の悲恋3 TOP 下段に小野小町の歌を掲げました。文屋康秀が三河へ三等官で赴任する際に彼女に想いを 打ち明けた歌の返歌が「わびぬれば・・・」です。惟喬親王が惟仁親王と立太子で競い 合っていたのは850年より前です。小野貞樹が851年従五位下ー甲斐国守として 赴任しましたが同族でしかも国守級の人物とよい仲であったといわれています。それらを 併せて推理しますとこの頃にひとつの惟喬親王隠遁がらみの悲恋があったことは十分 察知できます。惟喬親王は当時八歳ですから恋の相手の一人ではありません。乳母と いう関係であったとする人もいます。当時もし、惟喬親王の身に差し迫った危険があったなら 到底彼女の恋慕を歌う余裕などなかったはずではないか。そう思います。 従って惟喬親王が成人に近付いた頃に要注意人物として見られただろうと考えます。 まずは彼の関係者から左遷するのが当時の状況と考えました。 惟喬親王の失脚は思っていたほど非道ではなかったのでは。怨霊と扱うのには疑問がある。 茲に掲げたうちには三連歌が二組ありますが、叶わぬ恋の予感がします。 叶わぬ恋慕だから歌にしたわけですが、清少納言の時代より200年前の人であれば いかに叶わぬ事情があるか想像できることです。永井路子さんの「美貌の女帝」を 読めばある程度違いが分るかと思います。出生は809年春という説がある。 天智・天武天皇時代から多妻傾向となっている。これは皇室だけのことではないと 想像します。女性の側から言えば恋焦がれて待つ身が常でしょう。
小野小町の詩(うた)
人にあはん月のなきには思ひおきて胸はしり火に心やけをり
かぎりなきおもひのままによるもこむ夢路をさへに人はとがめじ
夢路には足もやすめず通へどもうつつにひとめ見しごとはあらず
うつつにはさもこそあらめ夢にさへ人めをもるとみるがわびしさ
思ひつつぬればや人の見えつらん夢としりせばさめざらましを
うたたねにこひしき人を見てしより夢てふものはたのみそめてき
いとせめてこひしき時はむばたまの夜の衣かへしてぞきる
今はとてわが身時雨にふりぬれば言の葉さへにうつろひにけり
秋かぜにあふたのみこそかなしけれわが身むなしくなりぬとおもへば
花の色はうつりにけりないたづらに我身世にふるながめせしまに
いろみえでうつろふものは世の中の人の心の花にぞありける
わびぬれば身をうき草の根をたえてさそふ水あらばいなんとぞ思ふ
紀貫之の小野小町への歌評
「古の衣通姫の流なり。あはれなるやうにて、強からず。いはば、
よき女のなやめる所あるに似たり。強からぬは、女の歌なればなるべし。」
[ MEMO 071 ]2000.1.18 一服話しーこれからの展開ー TOP 余談というか空想ということで流してください。 大化の改新前後は昨年にほんとはするべきなのですが、あえて遅らせました。 仏教の伝来や遣隋使派遣などで直に中国文化がもたらされることが主な理由です。 それまでは帰化人の人々の個人的な思想が加味されて伝えられ、さらに時代を動かす 人々によって解釈され行動になっていたと思います。下記にも書きましたが留学生の 果たした役割は明治維新当時と同様大変大きいものです。 帰化人達への意識もかなり変化したことでしょう。待遇においても、疎外に際しての 扱いにおいても大いに変化した。変化しないものがあるとしたら、経済力ではないでしょうか 今までに備蓄されたものも含めて。聖徳太子が秦氏をはじめとした帰化人の実力者に接近 した背景を悪く推理してみると、彼によって帰化人層の備蓄と実力が浮き彫りにされたと 思います。七世紀以降彼らの影が薄れていくのは、中国文化の直輸入の為ばかりではない。 彼らが権力や地位に劣らぬ優越性を堅持しえたものを失っていったからです。 神事もそうですし、織物、木工、鉱山すべてにおいて以後搾取されていくのです。 稲作だけがややもすると強調され思いがちです・・・・。 開墾すれば自分の所有になるという制度が日米でこうも事情が異なるのも不思議です。 古代・中世という時代でしょうか。将門や純友の乱は一面で民主制の兆しであったのか。 蝦夷の抵抗は南北戦争で南が勝利したケースだったのか。などを考えていくとその底流に 日本人の性格が浮き出てきます。空也は903年に生まれ、二十歳過ぎから地方遊行を 始めました。しかしその彼も書写が完了すると年齢的な理由でしょうが寺を持つ。 歴史はやはり蛇行を重ね大河の水が海に注ぐがごとき過程をなくしては成立しないのだと 手を拱いて眺めています。現代という時代もまたそうでしょう。 小野氏に焦点を当てた理由の一つには下級官吏や受領級の豪族たちの動向を明らかにして いくことにあります。その為にその上下の階層における動向も挿し入れつつ進めようと 考えている次第です。 [ MEMO 070 ]2000.1.17 大化の改新の前後1 TOP 622年に聖徳太子が没し、四年後に蘇我馬子が没し、またその二年後に推古天皇が没すると 隋から学んだ治世をしばらく主導後継するものがいなくなった。馬子の子蘇我蝦夷は自らの 権力維持ばかりか勢力の拡大に奔走し出した。十年間という歳月は静に過ぎた。 しかし、640年(舒明12年)に隋の時代に留学した人々が約30年ぶりに帰国するや 唐時代の新たな知識が治世発展の口火となったように思います。 蘇我入鹿を始め中大兄皇子、中臣鎌足という若人に政治への関心をもたらした。 蘇我入鹿が父である蝦夷の姿勢に留まれれば彼も新政に参加しえたでしょうが、来る新政の 最大の敵になったのです。 641年 舒明天皇が没して、入鹿のワンマンがエスカレートし、ついに643年皇位問題の 早期決着の行動に出たのです。それが山背大兄皇子の宮襲撃事件です。山背大兄皇子は一旦 難を逃れるものの王子とともに自害した。皇位の候補は他に中大兄皇子と蘇我入鹿が推す 古人皇子でした。二年近くの間の皇位問題未決の状況があったわけです。 中臣鎌足の一族は欽明朝時に功あって氏上になったのですが下級官吏といえます。神事に 関わる役職ではなかったかと思われます。(七世紀末に藤原不比等系以外の系統が神祗を 一手に任されることから推理して)彼は、644年に家の祭祀の任を断り三島の別業に留まる。 初め軽皇子に打診するが最終的には中大兄皇子と行動を共にした。645年クーデターが 挙行され成功し、蘇我馬子の一族は没したのです。 644年に秦河勝の常世の神征伐がなされています。中央からの指示での行為ですが 東国の国造の秩序維持力低下の現れと思えます。 642年に越の蝦夷が都飛鳥に来朝し、クーデターの翌月に朝鮮半島三国の使者が来訪 している。たまたまなのか、情報を入手しての行動なのか。642年に高句麗と百済が 連合して新羅を攻め勝利している。百済はもとの任那の地を占領したのです。 高句麗は唐の攻撃を当時受けていたという。 大化の改新後の治世への青写真は軽皇子すなわち孝徳天皇即位、中大兄皇子の実権施政となって いたように思えます。都は飛鳥から難波にその年の末に遷都され、それまでに新政府の政策は つぎつぎと出されました。翌年春には、東国に改新後派遣した国司や土地の国造を都に呼んで 政治ぶりを点検している。 大化の改新の前後2に続く [ MEMO 069 ]2000.1.15-16 八世紀九世紀 TOP 大宝律令の施行に始まった八世紀は東大寺の大仏開眼・正倉院の完成を半ばに桓武天皇そして 平安京建設を世紀末にという時代です。日本という国が中国文化を本格的に取り入れ動き 始めた時代です。朝鮮半島への進出を断念し、国内の未開拓地の統制に取り組み始めた時代 でもあります。715年に相模国などの富民1000戸を陸奥国に移住させていることが 一つの始動と思われる。蝦夷地の開拓史は武士の起りのページを参照して下さい。 また天皇家一族と藤原氏との確執は今後とも政争の流れを理解する上で欠かせません。 私は桓武天皇の時代を中心に今回は枝葉を広げていきました。 800年前後の時期に焦点を当ててみました。大和政権時代の終焉という意味があります。 つまり、奈良から京都に遷都される狭間の時代です。藤原氏一族においては四家に分裂して から次の世代以降のことになります。それぞれが勢力を競う頃で、暗躍する時代とみます。 長岡京の早期建設と遷都初期継続断念という事態が起りました。それは大伴氏一族の終焉に なるのですが、結果的には、桓武天皇が30年間の凝縮された治世事業を残しました。 長年の悲願たる蝦夷地の制圧、班田制度の確立、後の嵯峨天皇の大家父長制時代の基礎を 作るという治世事業といえます。桓武天皇が平安京建設を成し得たのは、藤原種継もそう でしたがその母が帰化人一族であったことが物心両面に大きく寄与していたと考えます。 それは大化の改新を成就しえた背景とよく一致しています。つまり広範囲の地方豪族の結集 に成功した為ということではないかと思います。そして彼の偉業は九世紀前半における 地方に赴任した行政官の手腕を引き出したと考えます。 このような観点に立って八世紀九世紀を辿っていきたいと考えます。 [ MEMO 068 ]2000.1.15 小野小町の悲恋2 TOP 小野小町の墓&塚(検索より)の地は全国に数十箇所あるといわれています。 秋田県雄勝町ー出生地と考えられています。 福島県小野町ー小野好実が出羽郡での任期を終え帰京する折に立ち寄ったとされる。ここで養女に したといわれる。 福島県高郷村ー雄勝への帰郷の折に立ち寄った所 鳥取県岸本町ー大山の麓、日野川のほとりに墓があります。 京都府大宮町ー丹後半島の中程にある所で小野一族の所領にて終焉の地と言われています。 京都府井手町ー橘諸兄の建立した井堤寺の近く、木津川沿い。冷泉家記に69歳で没すとあり 最も信頼のおけるものとされているらしい。 「色も香もなつかしきかな蛙鳴く井手のわたりの山吹の花」 岡山県清音村ー都窪郡にある所、倉敷市の北。小野山の中腹に井戸がある。 山口県豊浦町ー下関の北方。日本海に面した所。この近くに幡生(はたぶ)や小野田があります。 井沢元彦氏の「逆説の日本史4」によると、小町は惟喬親王の父文徳か仁明のそばに仕えた女性と 考えられ、高橋克彦氏は仁明帝の更衣と推理しています。小野氏クラスだと中宮にもなれない。 惟喬親王の生母紀静子も更衣であったという。小野吉子という更衣が調べると一人いたと書かれて いました。井沢氏の推理は小野吉子が姉で小町が妹と結論している。詳しくは本にて。 惟喬親王の乳母という説も立てているが考え得るところです。美人であることは伝説の深草少将の 百夜通いなどでも知られるところで伝記不詳ながらそう考えておきます。 言い寄る男多いけれど叶わぬ事情があったと推理すると惟喬親王の政界離脱の事情も併せて 悲恋を抱えた人と想像します。小野篁(たかむら)の孫とも考えられております。 篁(たかむら)の墓と紫式部の墓が並んであることを思い出しましたが、怨霊関係といい少し 繋がりがありそうですね。島津製作所の敷地内に墓はありますが、この会社は秦野市にも工場敷地を 持っています。藤原氏の関連からなのか興味があります。 【小メモ】 ・幡生町は下関市にあり、石川県南部の辰口町にも幡生庄というかっての東大寺所領があった。 辰口町を少し南下しますと恐竜遺跡で有名な手取湖があってその北側にある白山スーパー林道を 横切ると白川郷に辿り着きます。さらに天生峠を経て東に向かいますと飛騨高山ー丹生川村に 出て、乗鞍高原越えますと長野・安曇村・波田町に通じます。 ・高杉晋作は遺言で下関の吉田清水山に納骨をするよう言ったという。 ・秋田美人は様々で山越えた南部美人もあり、こちらが妥当という人もいる。 「小野小町の悲恋」はこの後もシリーズ化して展開していきたいです。 [ MEMO 067 ]2000.1.13 小野小町の悲恋1 TOP 井沢元彦氏の「逆説の日本史4」の始まりは『六歌仙は怨霊である』ことについてです。 六歌仙の一人小野小町について、そこでは同じ六歌仙の一人文屋康秀との交流の一端が 記されている。三河への「都落ち」を誘われ、受け入れると答えているのです。 「わびぬれば身をうき草の根を絶えて誘ふ水あらばいなむとぞ思ふ」の歌がそれです。 惟喬親王の失脚(八歳の時)後の「わびぬれば」であったと推理されている。 ここで言う悲恋とは「わびぬれば」の心境での恋話だからタイトルとした次第です。 書店で先に手にしたものは高橋克彦氏の「鬼」という文庫本でした。『六歌仙は怨霊である』 と初めに提起したのは彼で井沢氏はそのことに気付かなかったことを悔いていた。 怨霊がいかなるものかは上の二冊を読めばおおよそイメージが持てると思います。 ここ古代メモでも梅原氏の京都遊行で扱いましたので、想像はできるかと思いますが 八世紀以降を考察する上で一つのキーワードではないか。 怨霊を静める為に社を設けたり、源氏物語のような、時の権力者にとってみれば政争相手を 主人公にした物語を容認したり、ということがあります。これは庶民サイドでは逆で 神の到来になるのです。お上に対しての反骨もありましょうが大半は神が地元に突然来たと 有難く受け入れたものと考えます。そして知れば知るほどに身近な神なんでしょう。 井沢氏は既に武士の起こりに着目し、一方で平安期の藤原氏摂関政治を考察しています。 そのベースには、ケガレ・ミソギ・差別思想が置かれています。誠に斬新な解析がなされ 昨年概観してみて考察したい事柄が網羅されていましたし、さらに展開したいところですが ここでは、昨年の「京都遊行」と同様の扱いで進めたいと考えます。 手始めに小野小町にスポットを当てて枝葉を広げてみようと思います。 [ MEMO 066-3 ]2000.1.12 2000年の予定 TOP 今年初めに計画を立てようとしながら、考えず今に至ります。 ともかく「つれづれに残照」は続けようと思っています。歴史考察日誌だろうか。 古代メモに筋金をと、昨年武士をそれに当てようと考えていました。武士を行動に駆り立てた ものを柱にしてと。それでも当面は良いと思いますが今一つ斬新な視点を持ちたかった。 それが考えずに過していた理由です。 「字訓」を少し読んでから考えようと思っていますがまだ読めていません。 今年もまた流れを作らずその時その時の話題から触れていってみようかということで 「2000年の予定」はひとまず終えます。 時代についても特に八世紀を区切りにせずまた時代順に拘らずいきたいと考えています。 ー 続く ー |嵐山古代史|古代メモ1|2|3|4|5|6|7|8|9|10|11|12|13|
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