古代メモ Z ー 記載事項リスト ー 梅原猛氏の略歴1999書き納め松尾芭蕉について(2)松尾芭蕉について再び「さんせう太夫」武蔵国「幡屋郷」「京都遊行特別編」秦氏を追いかけて/ 下記に予告しました「不思議な出来事」については次のページで扱うことにしました。 つれづれに【 残照 】 [ MEMO 066-2 ]2000.1.3 梅原猛氏の略歴 TOP 1925年宮城県仙台市生まれ。京都大学卒。立命館大学教授を経て72年に京都市芸術大学 教授、74年に学長就任。国際日本文化研究センターの創設に尽力し87年から8年間、 初代所長を務めた。(現在顧問)「隠された十字架ー法隆寺論」「水底の歌ー柿本人麿論」 などの著作を通して歴史や文学に大胆な仮説を提起してきたほか、日本文化の基礎を アイヌ、沖縄に探り「森の思想」を展開。スーパー歌舞伎「ヤマトタケル」の戯曲なども 手がける。日本ペンクラブ会長。 三日の紙面で対談されていたお相手が「女神」で「好きで背負う」項で触れた秋野不矩さん。 この方は静岡県天竜市生まれで現在故郷と似た京都・美山に居しておられる。 森の思想とかヤマトタケルとか天竜・美山など私が関心を抱いているイメージの中に すっぽりと収まるのです。こういう時というのは何故か心踊るのです。 今年も大いに見えない絆を手繰り寄せていきたいと思います。 [ MEMO 066-1 ]1999.12.末 1999書き納め TOP 京都遊行(きょうとゆぎょう)は今回で一旦終わり一年後再開する という。この一年で京都の古跡約1/10未満の遊行だそうです。 梅原猛氏は74歳になられる。今京都で最も多忙を極める文化人 であります。秋に文化勲章を授与され来年併合し開校する芸大の 顧問だけでも多忙な身、84歳で子供をもうけた蓮如を掲げ まだまだ頑張らねばといわれる。 京都遊行は氏にとって一生の仕事と位置付けておられる。 思えば私も随分勉強させていただきました。司馬氏の後、紙面から ではありますが歴史の師でした。これからも。 今回で58週目でそこには、今までで訪問しながら未だ記されていない 古跡に触れておられました。円誉・蓮如そして秦川勝の川勝寺のこと。 秦川勝は聖徳太子の大蔵大臣の如き役割を務め、後に播磨国坂越に 流されそこで死んで怨霊となった伝承があるという。そして 申楽などの芸能者の祖神となったことと怨霊との関係を推理しようと されていたらしい。 私も最近、京都遊行と暫く離れると言いましたが、先のように 一年先でしか再開できないのはなんとも寂しい思いがしますが 自分なりに来年は一人歩きしてみたいと考えます。 [ MEMO 065 ]1999.12.14 松尾芭蕉について(2) TOP 「奥の細道」紀行に出発した芭蕉は日光東照宮を経て、東那須野にある黒羽町にて13泊している。 誰もが疑問を抱いている点です。松島のある仙台で4泊である。特別に地域的な特徴があるとも 思えない。これは黒羽町だけではなくて他にもあって芭蕉の知人の住まいする所と考えられます。 例えばある地主の方は芭蕉が滞在している間接待などの理由で所有の女郎屋をその間休業した上で 給金も渡したという話もある。余程の歓待を各地で受けたようです。 黒羽町という所は、那珂川の支流が集中して合流する地域で地図をみると京都の下鴨のようです。 鎌倉時代には頼朝の狩猟地であったとか、明治の頃の流通には幌馬車が使われていたという。 次に白河関を越えて郡山の手前須賀川で7泊している。その次が仙台です。郡山ではなくて 須賀川なんです。ここから阿武隈高地へ東に行くと小野町がある。須賀川を拠点にしたと推理 します。つまり黒羽にしても長期滞在はそこを拠点にしてあちこちと小旅行をしたのではないか と考えます。 平泉の後、尾花沢に10泊しています。最上川の中程にあって酒田ー山形の中間です。 「尾花沢に清風といふ者を尋ぬ。かれは富める者なれども、志卑しからず。都にもをりをり通ひて、 さすがに旅の情けを知りたれば、日ごろとどめて、長途のいたはり、さまざまにもてなしはべる。」 鈴木清風のことで江戸で芭蕉と交流していた。 その後は酒田に7泊、金沢に9泊、山中に8泊です。山中は温泉であることは容易にわかります。 尾花沢と酒田合わせて半月滞在するのは月山と最上川だけの理由だろうか。 伊賀上野は木津とともに木地師の里でもあります。蝦夷との境をかって強引に越え出羽郡を 設置して蝦夷と諍いを始めたのは最上川沿いの平野であり、森林地帯であろうことは推理できます。 庄内平野は稲作の宝庫であるのは古代も同じだったでしょう。朝日という地名や山の名称からも 伺えることです。鈴木清風と意気投合した背景を思う。 [ MEMO 064 ]1999.12.13 松尾芭蕉について TOP さて、事はなかなか予定通り進まないもので、年内まとめを中断して、以前から気になっていた 松尾芭蕉の旅の痕跡を辿ってみたくなりました。「奥の細道」そして中仙道・近畿・他と・・・ 資料としては、岩波文庫の「芭蕉紀行文集」を主に概観することから始めます。 と、開くや肝心の「奥の細道」がないのに気付く。そこでネットで検索、いいものがありました。 オコンバンワこれは、凄く詳しいです。 勝手にリンク通り、使わせていただきます。 奥の細道の他に次のような紀行があります。 野ざらし紀行1・・・・・江戸ー甲府ー塩尻ー名古屋ー鈴鹿峠ー京都ー奈良ー名張ー伊賀上野 野ざらし紀行2・・・・・江戸ー箱根ー大井川ー名古屋ー大垣ー彦根ー京都ー奈良ー伊勢・・ 更科紀行   ・・・・・江戸ー高崎ー小諸ー長野ー松本ー岐阜 その他としては東は伊良胡崎あるいは伊勢、西は明石、南は和歌山市あるいは高野山。そして 嵯峨日記や鹿島詣でなどがあります。奥の細道紀行も含めて4〜5年で旅し、その途上で 亡くなったわけです。 この紀行を辿ればいろんなことがさらに詳しく分かると、私の辿っている古代メモの視点から 思います。40歳を過ぎてからの紀行ですから、年齢的にも似ています。もっとも私の場合は 地図上のことで十年近く遅いですけど、伊賀上野で生まれ松尾家の次男。気になる松尾名、 嵯峨をこよなく愛したことや木曾義仲を好んだことなど誠に類似するところです。 これもまた、思い込みの理由かもしれません。古代メモを綴る中で生じたことなので 偶然の重なりというもので、計画的に意図したことではありません。現在においても、その 紀行の真意は定かではないです。尾張の俳人仲間や東北の知人などの援助があるという。 思うに人が命を賭して為すことは、その真意なるものを他者に告げないものではないだろうか。 告げたところで理解はできないし、告げようという気持ち自体が起らないものではないでしょうか。 確かに、俳諧道を極めるとか、門下生の成長を確かめるとか、父母の回忌に合わせるとか理由は ありましょうが私なりに抱いていていることを追いながら確かめてみたいです 琵琶湖南岸沿いに義仲寺があって芭蕉が幾度か立ち寄っている。芭蕉という字、巴に恋焦がれると 読めないことはない。紀行の初めは木曾路にありと今はロマンを持たせて置きます。 [ MEMO 063 ]1999.12.12 再び「さんせう太夫」 TOP ー京都遊行よりー  「さんせう太夫」の出自は津軽のイタコの語り物「岩木様一代記」が 関わっているという。イタコとは、死者や霊を呼び出してその言葉を口寄せする巫女のこと。 岩木とは岩木山のこと。その語りでは安寿姫が主人公だそうです。 「さんせう太夫」という人は村上天皇の頃の人で、話の舞台は丹後ですが「さんせう太夫」が 育った所は北山杉の北、美山町大野(美山町の昔話としてある)貴族ながら母子事情があって そこへ逃れ住んだという。そこで金を得て財為し丹後へ。厨子王達は父が岩城の役人だった頃 処刑され丹後へ来た。最後に和尚に助けられ厨子王が聖徳太子のご利益で救われるのです。 丹後由良から京まで和尚によって運ばれたという隠れ籠の一部が権現寺に残されている。 古い煤けたつづら編みです。権現寺は朱雀大路と丹波街道の交差する千本七条にある。 現在その辺りは京都中央卸市場となっている。何か厨子王の苦労苦難が夜明け前の市場で 働く人々に重なるようです。私もそこで六年働きましたが様々なドラマのような話を 見聞きさせていただきました。いずれ小説にして扱いたいですがまだまだ先になります。 村上天皇は950年代の頃で竹取物語の時代と近いです。枕草子の舞台にも近い地方の話に なろうかと思います。千年前の話です。 [ MEMO 062 ]1999.12.11 武蔵国「幡屋郷」 TOP 信濃波田町誌の「波田の由来」項に「郷名では『倭名抄』に 武蔵国「幡屋郷」や備中国 下道郡の秦原郷などがある。」と書かれていたので調べてみました。 場所は町田市の東南部一帯の丘陵地を含んだ地域でした。そこには友人がニュータウン内に マンションを購入して住んでいたこともあり、隣接する日吉町には一年ほど会社の独身寮が あって住んだことがありますので、またまた驚きました。 秦氏との関連は波田町よりさらに不確かではあります。区誌までは調べていませんが多分 そこまでの史料はないでしょう。思いますにこの辺りが多摩川にも近いことから六世紀頃の 蝦夷との境ではなかろうかと。幡多とは土佐の幡多郡が「国の端」という意味に考えられて いるように「国の端」の意味と考えられます。 航路では横浜港、陸路としては相模湖経由でありましょう。推理としては納得がゆく。 ついでに下記の安倍御主人について触れますと、壬申の乱のことですが、「日本の歴史」に よると地方豪族の中央への反旗が天武天皇を誕生させたと言います。 蝦夷地の安倍氏は考えますに安倍御主人の子孫が中央政権の混乱から抜け出して東北の 浮囚の長になったと考えておきたいと思います。その子孫が清原氏ー千葉氏あるいは 讃岐の安倍氏になっていくという図式でしょうか。 [ MEMO 061 ]1999.12.5 「京都遊行特別編」1999.12.5 TOP 来年の話題ではありますが、陰陽師で著名な安倍晴明について。 吉備真備ー賀茂忠行ー安倍晴明と伝わる陰陽道ですが その話の中で気になることが幾つかありましたので記します。 讃岐の出である安倍晴明は「尊卑分脈」によれば天武天皇の 寵臣「安倍御主人」の末裔とされる。安倍氏とは東北の浮囚の 長として知られるがその先は分からない。その安倍氏と 「安倍御主人」との関係も今は分からないですが蝦夷征伐の 阿倍氏との関連も指摘されている。当時出羽の蝦夷が奈良に 来訪して土着したこともありうることです。そしてその武力を 買われて讃岐に赴いたとも推定しうる。 安倍晴明は920-1005で長寿です。彼の伝承は全国に及び、母が 稲荷の狐とも言われている。だから長寿だったと。彼は二つの 偉業を為している。病人救済と水難防止で呪術に用いた立像は 阿弥陀仏と地蔵尊だろうと梅原氏はいう。 霊力の持ち主で運命を占うに秀でていたという。職神を使用し 戻橋の橋下に閉じ込め(妻の要望で)用事のある時用いたという。 五条橋の中州に地蔵尊の社を設置し水難防止を祈願したともいう。 この橋下なんですが、うちの渡月小橋の橋下に地蔵堂があります。 そこから川沿いに三軒先にかって霊力の持ち主がいて有名であった。 通じるものがあるのだろうか。 さらに節分の厄払いに関連する物吉というハンセン病者の集落人達 の神が安倍晴明ですが、職神の絵を見ると鬼の相であります。 彼らは平安時代鬼と言われていたのでは考えてしまいました。 近代・現代とその部落地域はいわゆる「部落民」とされた人々の 住まいする所とされていた。浮囚の長としての因縁を重ねる。 [ MEMO 060 ]1999.12.1 秦氏を追いかけて TOP 二年前に原稿用紙一枚のコメントで店に置く案内書に秦氏のことを紹介していました。 それがここまでに至る経緯は既に述べた通りです。 来年出版された秦氏関連の書物を購入して読んでみたいと思います。その前に自分の 古代史の全体像となる独自の枠を設置したく手付かずで置いて居りました。 神話や記紀まで関心を示すとは予想外でありました。触れてみて少しずつ吟味できたことは 客観的に扱う態度が形成されてよかったと思っています。まだまだ吟味は雑ですが基礎資料 としては集まりつつあり編纂した当時の思考も今はなんとなく伺えます。 後一月で考察しておきたい事は、八世紀までの社会を支えた人々の心意気なるもので それは、因果も含めて後の子孫の行動を規定しているように辿る中で覚えたからです。 先日、新聞に江戸時代長く京都府の福知山に居城していた朽木氏の子孫が明治の初め そこを離れたにも拘らず定年を早めて帰郷し古文書の研究に尽力するという記事が載って おりました。その子孫の方の思いというか心意気は分かる気がしています。 若い時にはなくてもある年齢になると浮上してくるものでしょうか。無意識にそれまで 断片的にその関連する事柄を強く記憶しているものなのです。繋がりはなく、ただ忘れず 留めているのです。これは文化が育むものではないようです。血が騒ぐというような 類の心意気なんです。しかも純粋な血統でなくても、思い入れでも可能な心意気で意気に 感ずるというものです。私も恐らく後者であろうと思っています。 では例えば帰化人達の何が通じるかと言いますと、パイオニア精神が一つ挙げられます。 仮に居住地を奪われたり武威で移住させられても彼らはそこでりっぱに文化を花開かせて 結実させているのです。一千年経ても人の生として結実させている。それを提示してくれた のが私にとっては司馬遼太郎氏です。古代より継承されているのは天皇家だけではない。 埋もれた継承は辿れば数限りなくあるということを辿ってみて確信しました。 それを明らかにできるのは推理しかない。それも事実です。あちこちと不確かな継接ぎが あろうともそこに流れる心意気は伺い知ることが可能であるということが「因果」という これもまた不確かな推理の命綱で結ばれていると覚えるのです。 その不思議な出来事を私事ではありますが書き留めて置きたいと思います。 嵐山古代史古代メモ110111213
|古代への旅|嵐山文学

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