古代メモX ー 記載事項リスト ー 栃木県の岩舟町空海と早良親王賀茂社の烏相撲久我の国「カモ」の神の素性探し番外編(2)大生部多の弾圧火雷神京都丹後・峰山町の赤坂今井墳丘墓発掘番外編(1)阿蘇という地名秦野市の歴史月読神社と松室一族信州の「小野」という名ワニ氏と小野氏ある相関図 [ MEMO 048 ]1999.10.20 栃木県の岩舟町 TOP 栃木県の南端に岩舟町という処があります。知り合った人のページを尋ねて見た写真がきっかけで 地図をみましたら近くに嵐山町とか愛宕山がありました。例のごとく関心が出て辺りをさらに 見ていると巨大な沼地があったり古墳もありました。ずっと北へ行きますと鬼怒川温泉があり そこは藤原町と記されていました。この辺りは2年前会津へドライブした時に通った街道でした。 岩舟町へは行きませんでしたが近くの小山市は道に迷ってウロウロしたことがあります。 葛生町に安蘇郡もあります。怪しいそんな思いでいます。足利市が近くにありますから 室町以降の地名かもしれませんが、先の調査が楽しみです。 山梨の丹波山村から多摩川を下り青梅市を経て北上します。そして山沿いに行くと嵐山町や花園村 さらには愛知方面にあるような地名を経て足利に到るわけですが多摩川や荒川一帯が湿地帯と想定 しますとこの山沿いがルートかもしれません。鉱山を探しながらであればなおのこと。 直線で40〜50kmですから古人であればすぐ近くでしょう。児玉郡という所があって先にも 記しておきましたが、(えっと小野氏のページです)児玉党という広域集団が平安時代に一世風靡 したと見ました。なんか関係すると思い記録しています。 私としてはこれからは楽しい発見でした。 [ MEMO 047 ]1999.10.17 空海と早良親王 TOP
今日の京都遊行は空海と早良親王についてです。 奈良盆地の西を南北に生駒山地があります。その北端が枚方丘陵になりますが木津川が淀川に 合流する為に、丘陵の先端部が削られ急な平野部が枚方平野と考えられます。木津川の本流は 巨椋池に通じる為にその間に位置する丘陵最先端の八幡市はこんもりと盛り上った大きな森山 のように対岸の長岡京からは見えます。 長岡京と八幡を結んでいた橋を「高瀬橋」と考えられますが今日その名は無く所在は不明です。 この「高瀬橋」で早良親王は長岡京造営の立役者藤原種継暗殺の首謀者にせられ淡路に移送 される直前に訴えの絶食によって命を絶ったといわれています。785年のことです。 惟喬親王のページで少し触れています嵯峨天皇の時代に空海が高雄から乙訓寺の別当になり過した折、 この早良親王の怨霊を嵯峨天皇から命ぜられ鎮魂したといわれています。 このことが嵯峨天皇を空海の絶大な庇護者にしたともいいます。 梅原氏は空海が日本の神々と外来の仏たちとの共存を日本仏教の根本としたという。 八幡神の像をみて彼は、首から下は空海に、首から上は実に強そうな八幡神の顔だという。 東大寺建立・大仏造立の立役者の一人良弁とともに早良親王も大仏造立に関わったという 話もあるそうです。この良弁は滋賀県水口の杣師(そまし)の里の出と伝えられている。 後の惟喬親王の悲話と何か重なっていくものがふとあるように思いました。 加えて、巫女や仏教の布教活動における怨霊鎮魂の行為は今日もなお日本人の精神に深く 関わっていることを覚えました。是非はともかく、一つの歴史として見据える必要があると 考えます。見据えなければ、盲目の信仰に陥るのではないかと思います。 [ MEMO 046 ]1999.10.10 賀茂社の烏相撲 TOP
藤原不比等の娘で聖武天皇の母である宮子がいましたが、彼女の母は賀茂氏の賀茂比売である。 今週の京都遊行は賀茂社の烏相撲のことでした。サンヤレ祭という神事です。 相撲で見かける塩で盛られた立塩はこの神事における立砂の形。 京都の料亭や旅館それに旧家の軒先で未だに見かける(立塩)。 立砂に立てかけるのは太刀と弓矢、つまり神の再来と若神の誕生のこと 焚き火をして古い人形などいろんなものの供養をしますがそれも この神事の前夜に行われる聖庭の場所を示す行事らしい。 また行水というのもサンヤレに参加する童児の水行の作法という。 昔体育系クラブで頻繁に先輩からやらされた烏飛びもこの神事の中に 形は違うがあります。 競馬と相撲になると心が踊るのは縄文文化のなごりなのか 知らない縄文文化が日常の中にまだ他に数多くあるようです。 日本の文明を世界八大文明に位置づける外国の学者もいるらしく 宗教の今日の重みは別にして生活に浸透していることを考えると そうともいえるかなという感がします。 [ MEMO 045 ]1999.10.3 久我の国 TOP

『山城風土記』逸文にこう記されています。 「葛野河(桂川)と賀茂河(鴨川)の会ふ所に至りまし、賀茂川を見遥かして、言りたまひしく、
「狭小くあれども、石川の清川なり」とのりたまひき。よりて、名づけて石川の瀬見の小川と曰ふ。
彼の川より上りまして、久我の国の北の山基に定まりましき。」 久我と書いて「こが」と読む。古代の大集落遺跡が左岸に出土しています。 桂川と鴨川の合流する所。里の川で九月に行った撮影場所付近です。 先週述べました岡田に辿り着いた賀茂神は再び平城に戻った後に久我に来たという。 そいて賀茂川を遡り賀茂神社の地に落ち着いたという。 「石川の瀬見の小川」風土記では久我を鴨川の上流と考えているらしい。 火雷神で先に扱った向日神社及び角宮と久我にある久我神社を結ぶ線は真西一直線という。 丹塗矢が飛ぶ軌跡といえます。 思うに、神社の所在は記紀と一致されていると、ここ京都においては 言えるのではないか。神が訪れた土地に根付くには土地の神と結婚しなければならないという 考えが神社という形の歴史遺物を作ったといえると思います。 唐もしくは韓という字の意味は神の国ということらしい。唐櫃越という洛西の奥山系の尾根道 がありますが、唐の意味が分からなかった。櫃は箱の意味だがさて? 京都市側の起点は桂坂でここには古墳がある。亀岡市側は馬堀です。馬堀という地名の由来は 馬説もありますが語源的には「埋め掘り」という意味らしい。先記の大山咋神が治水して水田化 したという所の一つです。この神は地上を徘徊します。天から降臨した後のこと。亀の背に 乗って保津川を遡ったと謂われますが、実際の行程はこの唐櫃越の道ではなかったかと思います。 三年前に通りましたがけもの道ながら足場の頑丈なゆるやかな尾根道でした。桂坂と異なる 起点には地元民の共同所有の墓地がありました。中世からと聞きますがそれより古くから 墓地であったかもしれません。
[ MEMO 044 ]1999.9.26 「カモ」の神の素性探し TOP 「京都遊行」は「カモ」の神の素性探しの続きでした。 「カモ」の神は奈良から山城国「岡田の賀茂」にまず入ったと書かれていましたが今週は「岡田の賀茂」 が取り上げてありました。 「カモ」というのは大体が神と同義であるという。神を祀る氏族を神氏或いは「カモ氏」と呼ばれていた というのです。諏訪神社上社の宮司は諏訪氏の前は神氏でした。上賀茂社は賀茂氏。 「岡田の賀茂」の由来は地名である岡田に「カモ氏」が来たので名付けられたという。 この記事のフィールドメモの別雷神の項に、「別雷神は天目一箇神(播磨国風土記に誕生が 描かれている)と似ている」とありました。お目一つというのは、日神の御姿です。 目を傷つけているということは神威の強さを表わすという。 神武天皇を導いた「カモ」の神は、後に奈良から京都への遷都を導いたとも書かれていました。 「カモ」の神が不思議に都のあるところに出現しているからという。(木津の恭仁京は岡田) 岡田国神社の宮司中岡氏の祖先は家康の伊賀越えを助けたという。今日立派に社殿を建てられた のは当時家康から寄進された裏山の一部が資金になったという。(余談?) 木津という名は木の港から付けられたらしく、ここに奈良の都の建材が集積されたといいます。 最近出土した女帝の古墳はこの地であります。(メモW参照のこと) 私が密かに描いているドラマ、福井の鳥浜遺跡人達が琵琶湖を経由して上賀茂神社のある北白川に そしてここ木津に定着したというもの、大河の上流、湖の近く(琵琶湖、巨椋湖)という環境 そして木地師に伺える縄文早期からの加工技術・舟と結びつくのです。 熊野については、蘇我氏の拠点が吉野川上流であるところから派生した考えであろうと今は 考えています。 [ MEMO 043 ]1999.9.24 番外編(2)大生部多の弾圧 TOP 大生部多が村人に妙な虫を祭ることをしきりにすすめたという。 「これは常世の神だから、この神を祀る者は、富と長寿を得るであろう」と言ったという。 彼には巫女たちが従っていたと書かれ彼女たちも彼に和したとある。(「北山を歩く」参照) 妙な虫とは何でしょうか。まず考えられるのは蚕でありますが七世紀中頃には既に知られている はずです。「京都遊行」の浦島話の項で削掛神事のことが書いてありました。稲作と養蚕を推察 させるケズリカケの神事ですが、縄文の時代から続く神事です。彼から言われると馴染んだ 祀り事なので信仰するでしょうね。繭を作る虫か繭のような巣を作る虫だと考えます。 秦氏の弾圧の背景に信仰神の拡大と保護があると推理する理由でもあります。養蚕に否定的な 態度をとるのは諏訪社の原始神を祀る一族と展開したわけです。 しかしこの弾圧は平安期道教が農民・貴族に浸透していったことを考えると秦氏の陰謀と推理 されても否定できないことです。道教と秦氏は元より深い関係があったから蘇我氏への手前 カモフラージュしたとも推理できます。秦河勝はその後高知へ拠点を移している。 [ MEMO 042 ]1999.9.19 火雷神 TOP 【賀茂社】――【下社】― (別雷神の祖父)賀茂建角身命(別雷神の母)娘・玉依媛命      ――【上社】― 賀茂別雷神                       それぞれ、祀っている。では父なる神は何処に?それがここのテーマとなります。 山城風土記逸文によると川で拾った丹塗矢を持ち帰って床に置いていたら懐妊したという。 その子が賀茂別雷神です。これではキリスト様なんですが、次いで父の名を記している。 「謂はゆる丹塗矢は、乙訓の郡の社に坐せる火雷神なり」 一方、「秦氏本系帳」にも秦氏の娘となって別雷神を懐妊する話があり、こちらは父を 大山咋神であるとしている。松尾神社の氏神は大山咋神と市杵島姫命、秦氏は元来大山咋神 ではなく宗像の神と市杵島姫命。だから後に賀茂社との関係を強調する為に作られたと 考える学者もいます。火雷神=大山咋神ではないとする異説の理由らしい。 大山咋神の父は大己貴命(大いなる土地をしろしめす貴人の意)で、父に随行して亀岡の水を 山城国に流すべく開墾したとされている。亀岡に本梅という地があり地名の由来は埋立地という。 ここは藤原氏を祖とする森一族が著名の地です。亀岡には大山咋神を祭神にする神社が多くある。 宗像とは宗像海人を指していて秦氏と深い協力関係にあるといわれる。彼らは瀬戸内海ー淀川ー 保津川ー丹波の経路で進出したとされている。 大山咋神の山咋とは松尾山から湧き出す清水の意味とされ、亀井の霊水や酒造と結びついていく。 松尾大社古記では八寸の霊亀が記されているがそれは道教そのものだと澤氏はいう。 (澤著「京都北山を歩く」を参照) 秦氏は松尾社を創建した頃は道教色であったが、後に大和政権の主脳部の意向が民間道教禁忌の傾向 になると稲荷信仰へと移行したと考えられます。賀茂社への接近はそのあたりに理由があるかも しれません。秦氏とは機をみて敏なる行動力の持ち主だとつくづく思う。このことは京都人が 亀岡人を評する際によく耳にします。しかしその性格は政権の頂点に立つ資質ではなかったといえます。   [ MEMO 041 ]1999.9.15 京都丹後・峰山町の赤坂今井墳丘墓発掘 TOP 国内最大級の墳丘墓が発掘されました。丹後の大首長と推理される。墓は東向きと思われる。 古代メモWにも触れている間人より竹野川を下った処にあります。峰山盆地の北部に位置します。 この墳丘墓の形は方形で出雲や大和の古墳とは違うもので、三世紀中頃の築造と考えられ 卑弥呼の時代前後の為に注目すべきものと言えます。周辺の鉄や勾玉の出土を考え合せると 独自の王国が成立していたと推理できます。 図の下中程から南へ由良川を遡ると福知山、さらに綾部ー園部ー亀岡と南下して京都に至ります。 大江山の頂上から京都方面を眺めた時、今の私の感覚でもそう遠い距離には思えません。 健脚の古代人から見れば軽く日帰りの行程と思っていたに違いない。しかし戦となれば難所であり 守勢にあっては心強い道程であります。独立王国の立地条件は充たされています。 出雲と大和の対立、九州と大和の対立から、丹後と大和の対立さらには琵琶湖湖岸地域と大和の対立 を加えた広域展望を邪馬台国についてはしなければならないと思います。 私の一つの考えでは、由良川を遡るルートが重要だとしています。蛇行しつつ南西に辿るこの航路は 太陽の日出の方角を狂わせるものではないかと考えます。これが仮に南とするならば日の出の先には 京都・奈良盆地があります。 分水嶺は丹波高原で、この広い台地は丹後あるいは京都から見ても重要な拠点となるに違いないと 以前から考えています。 [ MEMO 040 ]1999.9.13 番外編(1)阿蘇という地名 TOP 岡山の古墳群の近くに阿蘇という地名があります。その他にも忘れましたが地名としてあちこちで 何故阿蘇なのかと思いつつ過していました。諏訪大社関連を見ている中で、下社を設ける為に 都から派遣された金刺氏のことが書いてあり、その系譜に阿蘇氏がありました。検索で分かったのは このページの末尾に参考資料として掲げさせてもらいましたが、火の神を御神体とする阿蘇神社の 宮司一族でした。諏訪は霧が峰火山帯の一角にありますので派遣理由の一つだと思います。一説には 上社の諏訪氏を牽制する目的で下社を設置したと言われています。諏訪神社の説明文ではそのことは 触れていません。両社の神は仲直りしたとありますが、中世にあっては互いに分裂して抗争していました。 「波田町町史」筑摩郡の成立の項に次のように書かれています。 「大化の改新(645)以前、大和朝廷は地方の豪族を国造や県主に任命し地方の統治を行った。 信濃国の最初の国造は神八井耳命の孫にあたる建五百建命だという。・・・・ 古事記によれば神八井耳命を祖とする同族のなかに阿蘇君・科野国造があり、阿蘇系図の中に 科野国造について神八井耳命の子・金弓君(欽明天皇の舎人)の子に目古君と麻背君がいて この二人の系統が科野国造を担った。」とあります。 目古君は他田氏(多・太・大生などの氏族の祖)、麻背君は金刺氏の祖です。後に金刺氏は諏訪郡に 定着し諏訪社下社の大祝となっているとも書かれています。 筑摩の由来は束間で、天武朝の終わりに諏訪一帯に灰が降る記述がありますが束間の温湯として当時 全国的に有名で行幸の下調べまでしている。 諏訪社上社は神氏が大祝で後に諏訪氏となる。 大生と言えば秦氏が成敗したという大生部多と関係する一族なのか、神話もなかなかおもしろいです。 記紀の編纂には太氏が深く関わっています。 ヤマトタケル伝説の考案者の一角には太氏も入っていたのだろうか。 様々な豪族の広域分布は継体朝で学んだように確実に根を下ろしていったといえると思います。 [ MEMO 039 ]1999.9.6 秦野市の歴史 TOP 先に富士川における大生部多への弾圧の理由は秦氏一族への保護としましたが、富士川の東方に 秦野市があります。随分以前にネットの友人からその地名は聞いて知っていましたが今回調べて見ました。 秦野市のホームページにある歴史では次のように書かれていました。 「秦野の歴史は古く、先土器時代から人類の営みがあったようです。 盆地の開発も古墳時代の末期から 進められ、秦野の地名も、その中心となった「秦氏」が由来であると伝えられています。」 波多野城址という遺跡が残っていますが、そこには 「平安時代の中期に、相模守として下向した藤原氏が土着して武士となり、 ”波多野氏”を名乗りました。 それから200年、一族十四家で秦野盆地を守り、源・平・北条・足利氏と集合・離散しながら、 豪族としてこの地に君臨してきました。 ここは、その居館があったところで、その面積は、 一説によると15,000uといわれています。」と書かれています。 藤原氏と秦氏の姻戚関係はすでに述べたことですが、この”波多野氏”を名乗った一族は秦氏に濃い 一族であったと思われます。そしてここを拠点にしてさらに姻戚関係を広げ、昨年来目標としてきた 鎌倉と秦氏の因果関係の歴史的説明が一応できたことになるのではと考えます。 今年松本から甲府・富士五湖へのドライブ旅行で辿ったコースの中に、富士川沿いがありましたが その途中にあった下部やその南に位置する南部は多分秦氏ゆかりの土地だろうと思います。 当初思い描いた素因は川の治水工事の技術からに過ぎませんでした。足利についても織物の地という おおまかな素因があったに過ぎません。歴史を辿っていく中でこれほど多くのことが展開でき、一つずつ 解明されるとは正直予想すらできませんでした。 改めて日本の歴史における帰化人のパイオニア精神が寄与した偉大さに驚いています。 鎌倉で留まるわけではありません。福島・秋田・函館と北へと続くものです。それはまた、都留市で 知った松尾芭蕉の数多い句碑にも象徴されるように何故、芭蕉が奥の細道等の長旅をするに至ったのか という歴史からみれば、ささやかな疑問にも答えうることでもあり、ともすれば、日本人は鎖国や島国で パイオニア精神に劣る民族であるとする固定観念を打破しうることにもなろうかと考えます。   [ MEMO 038 ]1999.9.5 月読神社と松室一族 TOP 山城風土記逸文に「欽明天皇の頃、大雨と洪水が起こった。そこで占いでもって皇室に仕える 伊吉若日子に占わせたら、賀茂の神の祟りであるという。それで四月の吉日に、馬に鈴を懸け 乗り手は猪の頭を被って、競馬をしたところ、五穀は稔り天下は太平になったという。」 (日向の女良神楽などは、神楽の時に必ず猪の頭を飾る)とある。 伊吉若日子(伊吉は伊伎に同じ)の子孫は明治まで代々月読神社の宮司を務めた。その一族、 松室幸雄氏は葵祭に雅楽で奉仕する。「月読神と松室一族」の中に 「葵祭、これは・・・・ト部『伊吉若日子』が勅使となって五穀豊穣を祈り祭礼を行ったのが はじまりといわれている。これは明かにト占の術を以って天皇の使いとして神に祈ったもので この伊吉若日子は吾が一族の系図上に記録されている実在の人物である」と書かれている。 ー 以上は「京都遊行」より参照しました。ー 欽明天皇は継体天皇の後継天皇であります。六世紀中頃の事になります。 継体天皇の一族は蘇我氏から排斥されましたが秦氏や賀茂氏などは変わらず勢力を温存したことが これで明かになりました。 もう一つ、711年に「衆を集めて騎射することを禁ず」などという詔が出ていると書かれていました。 全国から集まってきていたと思われています。 信州に馬が近畿からもたらされそこの牧で飼育された馬で一気に富士・群馬・関東へと大和政権の 支配圏が拡充されたことは推理しうるところです。松本の波田町周辺に牧が集中することや 日本海への川を下る便そして海運によって関東・信州などの物資が都へと運ばれたことでしょう。 [ MEMO 037 ]1999.9.4 信州の「小野」という名 TOP moonさんのページで読みました『信州の「小野」という名』は、かなり展開しうるキーワードに なりつつあります。その後の情報として「小野神社」が町田市にあって、ヤマトタケルの「小野神社」と 小野小町ゆかりという「小野神社」が向かい合わせであると聞き、「小野」という名についてYAHOO とNTTで検索してみましたら、次の事が入手できました。 @  打ち刃物を扱う商店が信州・兵庫・滋賀の志賀町にあること A  町田市の小野神社は小野路にあって、小野路はその源の小野郷に名の由来があるらしいこと B  福島県に小野小町生誕地伝承の温泉があること これから述べることは、独り言と思って下さい。何ら根拠という定かなものはありません。 例のごとく地図で地名探索遊びをしてみました。まず諏訪から大月市、そこで桂川と葛野川有り。 大月から東に行くと相模湖そして小野郷・町田市。相模湖を南下しますと丹沢山地越えて 秦野市。その西に酒匂川(秦酒公がおり、松尾大社は酒神)。 下記にあります東国富士川における大生部多への弾圧の理由は当時すでに富士山一帯に一族ないしは 秦氏と関わる人々がすでに定住していたからではないかという推理と結びつけたくなります。 また大月市・相模湖には石器遺跡があって長野松本とも早くから交流があったと思います。 葛野川の源流には丹波山村があり、大月の南には都留市があって秦都理を連想、その南に西桂町があります。 (都留市と秦都理の関係は市の名の由来を知るかぎりでは無関係でした) 松本の波田町から桐生までの以東ルートを定めかねていましたが、どうやら大月ルートが正道の ようですね。その線でいきます。今年は京都では初めて福知山が全国では桐生が優勝し、岡山も 大健闘、高校野球は鬼がらみの様相と私は見ていました。(余談・・) しうちーの突飛な推理を一つ。ヤマトタケル伝説すなわちヤマトタケルのモデルは秦河勝と秦氏の過去の 長達ではないだろうか。熊襲は筑紫の磐井の乱そして蝦夷征伐は富士川の征伐というわけです。 [ MEMO 036 ]1999.8.31 ワニ氏と小野氏 TOP 「京都・北山を歩く」2(澤潔著)の中に小野郷・小野山のことが 詳しく述べられていました。 和邇氏は琵琶湖の湖西の南に今も地名として残る和邇浜から京都北山 にかけて拠点を置いていた豪族で和珥氏の一族と考えられている。 その和邇氏が後に小野氏と真野氏に分かれたという。 海人集団族としては安曇系と和邇系が近江では知られている。 小野古墳群は和邇川左岸丘陵地に密集しています。 小野一族の祖神は斧神といわれ製鉄と関わりがあること、木地師とも つながるところでもあります。 小野氏の急速な没落の原因を賀茂社と秦氏に蚕食されたとしている点は 大いに注目するところです。(六世紀前後) 秦氏が後に製鉄技術に精通していった理由が継体天皇とのつながりとの 関連も併せて関心があります。 信州に小野という地名があると以前moonさんのページで読みましたが一度調べて みる価値がありそうです。(波田町が秦氏と関連があったように・・・) 【 今までのことをつれづれに 】 各地に居住する海人族の人々にとって小町は誇り語りたい人物だった に違いない。あるいは修験道系小野採鉱集団の人々が各地で地元民に 語り聞かせたに違いない。かような推理ができます。 小野一族はもと小野郷(八瀬・大原)に居住していたが次第に北山を 転々として西の奥京北町のはずれにある小野山に落ち着くことになった 。その理由を平安遷都に伴う新渡来系木地師の進出とする考えもあります。 以前古代メモで小野タカムラの野狂について触れましたが、彼の反骨 精神の背景がここにきて少し分かりかけてきました。 中央アジアや東ティモールなどにみられる民族紛争が絶えず再燃する ことを考え合せます。 蚕食した側からみれば、蚕食された人々は「鬼」と映るのでしょうか。 「鬼」の調べは序についたばかりです。 「北山を歩く」を読み進めていますが、秦氏の年表に書いてある 秦河勝の東国富士川における大生部多への弾圧のことが掲げてありました。 その背景には大和政権主脳部における民間道教禁忌の傾向があるという その真意は藤原不比等が策謀した「海人系の古い太陽信仰弾圧」 (火明命という神)によって新しい北方モンゴル系太陽信仰の定着であるという。 一方秦氏は稲荷信仰を守る為に訴えた。信仰の為もあるが各地に 散らばる一族の勢力安定の為であったろう。それは賀茂一族も同じであろう。 北山の奥深い地域にかような歴史の痕跡が地名なども含めて残っている というのである。幕末の頃司馬氏も指摘していたが倒幕の志士を支援 した当地の地元民の気骨の背景にも伺えるのかもしれません。 三苗族を祖先としたのが海人族であったと今は考えています。 [ MEMO 035 ]1999.8.29 ある相関図 TOP 桓武天皇の平安京遷都に大きく関わった一族が京都には二つある。 先週の「京都遊行」において日吉大社の祭りに端を発して少し強引ながら相関図を試みました。
東北を拠点にする賀茂県主の一族東南・西南を拠点にする秦氏一族
縄文祭りが残る日吉大社松尾大社
縄文遺跡である北白川遺跡群向日・久世遺跡群
渡来の農業神と放浪の土着神を持つ
上賀茂神社・下鴨神社
乙訓郡の社及び長岡京向日神社に
座す火雷神
鴨川と白川が交わる桂川と天神川が交わる

豊作を占う火祭りは鞍馬と嵯峨釈迦堂という対比もあるのです。比叡山と愛宕山信仰なども。 いずれにしても、当初地図を広げて京都盆地を眺めた折の地形の類似はかくなる推理へと 結びついてきました。土地鑑というものは恐らく古代人の方が何倍も優れていたことでしょう。 【 参考資料 】 ー阿蘇氏についてー  阿蘇家文書は一の宮町の阿蘇神社の旧大宮司家に伝来した古文書で昭和32年(1957)に本学の 所蔵するところとなり、昭和62年(1987)国の重要文化財に指定された。内容は鎌倉・南北長期を 中心に、平安末から幕末期におよび、計304通、34巻に成巻されており、その大部が原本である。 ちなみに昭和7年(1932)刊行の大日本古文書「阿蘇文書之一」には、「阿蘇家文書」351通を 収めている。熊大所蔵分で「阿蘇家文書」に見あたらぬものが8通あるので、熊大に移管されなかった 分が55通あることになる。  ところで阿蘇神社は、火山神として、はやくから国家的奉幣を受け、平安末期には肥後一の宮として 甲佐・健軍・郡浦(こうのうら)の三社を末社とし、その勢威は本社領阿蘇荘を中心に広く肥後一国に およんだ。そして、社領も阿蘇・詫麻・益城・宇土・八代の四郡におよび、大宮司阿蘇氏も肥後有数の 在地領主(武士団)として発展した。鎌倉幕府が成立すると、北条時政が阿蘇荘をはじめ阿蘇本末社領の 預所職を獲得し、大宮司の上に立つことになったことから、鎌倉期の阿蘇家文書には、建久7年 (1196)8月1日阿蘇惟次を大宮司に補任した時政の下文(くだしぶみ)をはじめ、北条氏歴代の 発給する文書が多くふくまれることになった。  南北朝期になると、建武政権−南朝も北朝(武家方)も、ともに阿蘇大宮司の勢力をたいへん高く 評価し、しきりに所領を寄進し軍勢催促を行なった。これに対し大宮司一族もあるいは南朝方(宮方) あるいは北朝方(武家方)、さらには去就を鮮明にしないものなど、多様な対応を示す。したがって 関係文書もきわめて複雑多様で豊富な内容をふくむものを多く遺すことになり、内乱期の九州の政治情況を 知る上でもっとも重要な資料群となっている。  さらに南北朝〜室町期の分には、本末所領にかかわる土地関係史料が多くふくまれており、神社領や 九州荘園の研究上資するところきわめて大きい。また造営・祭事関係史料もすくなくない。  なお、今日の阿蘇家文書には、本来の旧大宮司家以外の権大宮司家等の社家文書もふくまれている。 これらは幕末期「阿蘇家伝」の編集の必要から集められたものである。これらの文書とふくめて 阿蘇家文書は天保7年(1836)火災のため大半を焼失した。焼け残った文書も、上部や下部を焼失 しているものが少なくない。ただ幸いなことに、その前に阿蘇惟馨(これか)によって転写された副本が あって、それによって今日われわれは阿蘇家文書の全体像をうかがうことができる。本学所蔵の36冊の 綴帖冊子がこれである。  以下本号から数回にわたり、阿蘇家文書のなかから注目すべきものを選んで紹介する。(熊本大HPより) 波多野家血統鑑によると、祖は天ノ児屋根命で、藤原鎌足―不比等―房前―藤成―豊沢―村雄―秀郷と続く。 秀郷は田原藤太秀郷といい鎮守府将軍になっている。初めて波多野の姓をもちいたのは秀郷から6代目の 経範からで、経範は相州(神奈川県泰野市)の祖となっており、さらに経範から6代目の義重は越前 (福井県)の波多野の祖で永平寺を建立している。 丹波の波多野家は、義重から4代目の経基から(一説では義重の先代、忠綱の弟、経朝ともいう)で、 その後、秀範、秀経と続く。永正年間(1504〜1520)に朝路山に城を築いたのは秀範のころだった。 城下を“八上”と呼ぶことにした秀経(秀範の子)には男子が生まれず、同族の因幡(鳥取県)の秀行の子、 千勝丸(千熊丸ともいう)を養子に迎え、元服して秀治と名乗らせた。 東屋形となった秀治は実弟、秀尚をも八上に迎えたほか、東南篠の城主、酒井重貞の子、秀香を養弟とし、 二階堂姓を名乗らせた。また、自分の二人の娘を穂壺(氷上郡柏原町)の城主、赤井景遠に、いま一人を 三木城主、別所長治に嫁がせた。 西屋形と呼ぶ氷上城主、波多野宗高は秀治と親戚関係にあり、これらの一族郎党の支援を受けた秀治は、 天下を二分するほどの勢力を張った。 嵐山古代史古代メモ110111213
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