古代メモV ー 記載事項リスト ー 地名から辿る歴史の痕継体天皇と秦氏の関係たかが梅干と思うなかれ鬼とされた人々桓武天皇と母君「高野新笠」安曇野(あずみの)の語源日田の鬼藤原氏について薄墨桜と淡墨桜 [ MEMO 016 ]1999.3.28 地名から辿る歴史の痕 TOP 武が付く地名は継体大王ゆかりの地と推理することができます。手掛りになるという意味で それほど確かなことではありませんが調べるには値します。福井市の南に三尾野という地が あります。三尾は継体大王の父の別業があった地名です。(滋賀・高島町の南) 京都の古い愛宕古文書に「福井・坂井郡水尾」と書かれていて、その水尾という地名は 京都愛宕神社の西方に「柚の里」と知られる「水尾」でも残っています。また、総社の 秦村の北方に三尾寺があります。これも調べるに値します。そういうところから「武」 に注目すると、福井に武生があり、滋賀・三尾の隣りに武曽村があります。継体大王は 圧倒的な武力を背景に誕生した天皇ですから武は象徴的な意味を持っているのだろうと 考えています。もう一つ言いますと、信州の松本の西方に波田村があって、隣接する ように安曇村(滋賀・三尾は安曇郡にある)と朝日村(福井・三尾野のある朝日町)が あります。偶然にしては出来過ぎです。信州とか吉備の山中に残る理由というか 名付けられた理由は鉄鉱石や砂鉄を当時国内調達するのに急務な時代背景が絡んで いるからです。このように地名というものは家紋と同様に歴史遺物と考えられます。 秦氏が丹波・丹後にその勢力を誇示していた頃、「部」を地名に付けました。 「綾部」「園部」「六人部」などあり、他にもゆかりの地名というのがあちこちに あると何かで読みました。またいつか調べておきます。 「嵯峨風雪月花」(今井幸代著)に調べてありました。 丹波・丹後にかけて、「綾部」「園部」「六人部」「余部」「物部」「六万部」「原里部」 「生部」「刑部」「私部」「猪食部」「土師部」などがある。「刑部」は総社にもあった。 古代秦氏特有の部称名らしい。 [ MEMO 017 ]1999.3.29 継体天皇と秦氏の関係 TOP 現在推理するところでは、継体大王の陸上部隊として秦氏一族が担っていたと推理して います。秦部という役職を通して各地に拠点と一族を配している秦氏一族を無視する わけにはいかない。 継体大王の姻戚関係の結びつきを考えると当然取入れるでしょう。 「継体大王と越の国」(福井新聞社刊行)では河川の治水工事に継体大王が関与した 伝説は根拠が乏しく、江戸期に治水が為されたものとしていますが、秦氏と結びついて いたとするなら、当然の結果かもしれません。関与していた伝説は正しいと 考えられます。桂川の治水工事も今日なお続いているほどに一時期だけのことではない のです。治水で思い浮かんだことで、蛇足になるかもしれませんが、角倉了以という 嵯峨の商人が江戸期の治水工事を手がけました。 桂川に始まり、東は天竜川、大井川まで全国的に関与しました。半分は奉仕活動です。 秦氏の経歴を調べていく中で次のような言葉がありました。 古語に「嵯峨より六里の丹波に通ずる」六里と言えば約27kmです。街道距離でしょう。 後日角倉了以が嵯峨より丹波の殿田間32kmに舟運を通じた距離に相当します。 どうも因果というか目に見えない結びつきを考えてしまうのです。 さて、前項で記した中に松本の地名がありますが、尾張から木曽川を経て松本に至る経路 で鉄入手に進路をとったものと推理しています。そして群馬との中継点としてその地を 選んだのではないか、そこは真っ直ぐ北に上れば日本海へ辿れます。 木曽川上流から松本までにはあの有名な野麦峠があり、群馬は織物の地域であります。 どちらの関係が早くに敷かれたかは定かではありませんが秦氏や継体大王の何らかの 意向がこの地に及んだことは間違いのないことです。 [ MEMO 018 ]1999.3.29 たかが梅干と思うなかれ TOP 福井は梅干で有名です。先日、三方五湖にふぐ料理を食べにいった知人が持ち帰った みやげに大粒の梅干がありまして初めて知りました。和歌山に南部という町があって そこもブランド品です。ここにも部がある。味付けは違いますが大粒です。 和歌山には熊野という地に鬼が島があります。調べてみる価値はありそうです。 先のメモの中に秦氏の伝説が古事記などにあったことを思い出したものです。 梅干ではありませんが、日本の最古の六大古窯は、瀬戸・常滑・丹波・信楽・越前・ 備前です。備前は先日行った所で吉井川という大河のほとりにあります。 そこはかって備前の国伊部村と呼ばれていました。これも調べれば脈絡がありそうです。 [ MEMO 019 ]1999.4.12 鬼とされた人々 TOP 初めに鬼というのを辞典では次のように説明しています。 「鬼は和名抄によると、<隠>おぬのなまりだという。姿が隠れて見えないことを 前提としていたのであろう。日本の鬼の観念は時代によって移り変わりがみられるが、 人の亡霊を意味する中国の鬼(き)とはやや観念を異にする。 古くは、おそろしい形をして人を害し人を食うという怪物の意に用いられた。 日本書紀に鬼神(あしきかみ)邪鬼(あしきもの)姦鬼(かしましきおに)などの 用例あり。出雲風土記に目一つの鬼があらわれて、田で働く男をつかんで食べた話がある。 奈良時代(八世紀)には仏教の影響を受けて餓鬼(がき)疫鬼のたぐいがあらわれるほか、 続いて平安時代(9世紀〜12世紀)においては、地獄には赤鬼・青鬼・牛鬼・馬鬼 などがいて、人界にはこぶを質にとった鬼、羅生門で渡辺綱に腕を切られた鬼などが あり、今昔物語や宇治拾遺物語などにでている。 鬼の子孫とする特殊な家筋が大分県日田・京都の八瀬村などにみられます。 地方での鬼としては、鈴鹿山の鬼、茨木童子、酒天童子、戸隠山の女鬼紅葉などあり。」 幽霊・亡霊の類と異なり、人界において隠れはするが姿を見せ実在し人間に対して アクションを起すものとされているのです。人界の歴史を作る素因という訳です。 私が最初に教えられたのはお寺で地獄の話を見聞きした時に姿を記憶したと思います。 言葉は無論「鬼ごっこ」です。その遊びが見聞きの後によりスリリングなものに転じた ことはいうまでもないでしょう。節分の鬼も同様です。悪人たりとも三分の魂ありと するように鬼もそのうち可愛く笑えるイメージが作られてきたものです。 世間から爪弾きされた人々を鬼とみなすことは七世紀より今日までの長い歴史を持って いるのです。主たる記録として、吉備における例の桃太郎の鬼退治物語を作らせた 事件があります。吉備津彦なる人の英雄伝説です。吉備津神社としても残っています。 鬼は島ではなくて鬼ノ城という総社市にある山頂の石城の住人だと考えられています。 一昨年発掘内容が公表され報道もされました。記録によると大男で剛力の渡来人と されています。英雄伝承ですが民話ではなくて、当時の国家による意図的なデッチあげ 報道といえます。記録だけが残ったわけです。ところが仔細に発掘を調べたところ 綿密に下水道まで配慮された城でした。年代測定すると朝鮮半島で大和国家が大敗 した頃と一致しました。このページで書いたものがありますので参考までに。 「既に砂鉄を使う製鉄技術を担っていた吉備国に秦氏が留まったことは疑う余地のない ことであろう。 六世紀初め、京都では摂政になった聖徳太子との結びつきを深め 広隆寺の建立や新羅・任那の使者接待役等の表舞台での活躍がみられる。 吉備国もまた対朝鮮半島諸国との外交の先導的役割を担っていた。では、 この山城は何を目的に築城されたのかが、次なる問いである。 私は、六―七世紀初めに築城が始まったと考える。大和国家に向けてのものではなく、 外交上の築城であったと考える。七世紀中頃朝鮮半島情勢は唐の介入が加わり不穏で あった。663年に白村江の戦いに敗れるや唐の圧力は最高点に達したと思われる。 前後して九州や四国・瀬戸内に築城が為されている。情勢判断に長けた吉備国が 先んじて築城しても不思議ではないだろう。この戦では吉備一国で二万人従軍 させている。守りを固めることは当然であろう。 鬼ノ城が記録にないことは、大和国家の援助なしに築城されたことを意味していると 考える。 造山古墳の規模は仁徳陵に匹敵する。国力の鼓舞といわれるが、むしろ 外交上の理由で巨大古墳墓を造ったと考える。吉備には必ず立ち寄るからである。 最後に残る問いは、桃太郎伝説である。地元豪族の祖先神は御友別であるが、 吉備津神社に納められているのは、大和から派遣され鬼神と対決して吉備を救った とされる吉備津彦である。記録では鬼神なるもの鬼ノ城にあって船を襲い吉備の民を 苦しめ背丈高く、剛力でとある。しかし、その正体は謎のままである。」 4.12本日ですが、「鬼」を検索していて「ももたろう伝説の悲話」を載せたHPを 見つけました。吉備津宮縁起による温羅伝説に基づいて推理されたレポートです。 現在アクセス中ですので参考になれば訪ねてみて下さい。 「ももたろう伝説の悲話」 [ MEMO 020 ]1999.4.13 桓武天皇と母君「高野新笠」 TOP 4.12付けの京都新聞に桓武天皇の母君「高野新笠」のことが書かれていました。 要約すると次の通りです。これはあくまで「平野神社由緒略記」に基づく内容です。 平安時代末期の歌学書(袋草紙)に平野神社を紹介する歌がありますがそこに 「高野新笠」という光仁天皇の皇后のことが紹介されている。その間の皇子が後に、 平城京・長岡京・平安京の三都の天皇だった桓武天皇です。「高野新笠」の父は 朝鮮半島南部の百済から渡来した和乙継(わのおとつぐ)、母は土師真妹 (はじのまいも)という。和氏の先祖は538年に仏教を公式に日本に伝えた とされる聖明王という。母方の土師氏は渡来人ではない。土師氏はもとは堺市の 百舌鳥の出で乙訓郡に移った。「高野新笠」の死後地名の大枝氏に改姓した。 物集女の地名は百舌鳥の名残とされている。 大枝陵は「高野新笠」が789年に死去して後葬られたところ。 桓武天皇は「高野新笠」の住んでいた乙訓郡で育てられて、45歳で皇位に就き、 784年に長岡京へ遷都。そして794年に平安京に遷都した。母と大枝氏の影響を 受けてのこととされている。ー「平野神社由緒略記」によるー 桓武天皇は多くの百済・新羅の渡来人を登用し、渡来人に親近感を持っていた ことは確かで「百済王などは、私の外戚である」と語り、百済王室の子孫に当る 女性たちとの間で三人の子供をもうけている。 平安京への遷都については難波宮などの対立候補地議論の上、複雑に検討されたようで ここに記されたのは結果論と思われる。和氏・大枝氏の実力はそれほどではなかった。 「嵯峨風雪月花」(今井幸代著)によると、長岡京遷都の主唱者は藤原種継で 平安京遷都の主唱者は藤原小黒麿と和気清麿で、いずれの母君も秦氏出身という。 さらに、「秦氏はやがて藤原氏と重なり、桓武天皇も古き秦氏の姻族となり 藤原氏との外戚として勢力を発揮した」と述べています。 私は後者の方を採用したいと思います。姻族よりも経済力と動員力という点で はるかに優っているからです。 追記 781年土師氏は菅原と改姓しています。菅原氏は時の実力者の中にあります。 [ MEMO 021 ]1999.4.16 安曇野(あずみの)の語源 TOP 長野松本市の西方に安曇郡や安曇野や安曇村があります。この「安曇」の名の由来は 阿曇氏や安曇氏という古代の海人をひきいる豪族の名前にあるといわれる。 古事記によれば「あずみ」「わだつみ」は同義で海人あるいはその首長の意とされ、 両氏の始祖は三柱のワダツミノカミを祖神とし、その子ウツシヒガナサクノミコトの 子孫とされている。姓氏録には安曇宿禰があり三韓征伐の時には安曇磯良の名がある。 この氏族は「和名抄」では、本拠を筑前国粕屋郡阿曇郷としている。 全国に及んだ一族で一部が信濃に入ったという。 いわゆる水軍の支配者といえます。滋賀県にある安曇川も彼等の一族であったに違いない。 継体大王は彼等をいち早く支配したと考えられる。継体すなわち「安曇」と考えていたが 継体に従う氏族の名から来ているということで松本の波田村の周り一帯に名付けられた 地名の意味が理解できました。継体そのものの象徴であれば波田村が中程にあるのは 変だと考えていました。応神天皇の時代彼等海人が命に従わず手を焼かせたといわれている。 また、秦氏が日本海域との交流後に太平洋海域に進出したきっかけは継体後ではないかと 推理できます。和歌山そして四国の沿岸地域の痕跡が浮上してきました。 [ MEMO 022 ]1999.4.17 日田の鬼 TOP 「鬼の子孫とする特殊な家筋が大分県日田・京都の八瀬村などにみられます。」 ということで、地図を開いてみた限りのことで少し。 筑紫国造磐井が継体天皇の代の終わりに反乱しましたが筑紫平野を東西に筑後川が流れ その源に日田市があります。反乱の鎮圧に軍を派遣するには、日本海側からともう一つ 背後に当る日田からと考えられます。日田に入るには大分の中津市より山国川を溯上し 陸路日田に行くのが便利でその陸路は今日も日田街道としてあります。 市内中程に亀山公園があり高瀬川があります。 北には大肥川を経てのルートと花月川から小野川を経て岳滅鬼山に至るルートがあり、 南には大山川の上流に酒天童子山があります。 鬼との関連があるとしたら今はこの位のものです。 [ MEMO 023 ]1999.4.18 藤原氏について(梅原猛氏著「京都遊行」より参照) TOP 「日本は既に八世紀から、「律令」に基づいて国の政治が行われる法治国家になったが、 その法治国家の体裁が整ったのは、大宝元年(701)の「律令」の制定による。 「律」というのは今の刑法に当り、「令」というのは今の行政法や民法に当る。 この「律令」制度の中心人物が藤原鎌足の子の藤原不比等であった。不比等は卓越した 政治家で、和同開珎の鋳造、奈良遷都、『日本書紀』の編集などをその手で行なった。 総て「律令国家建設」の理念によって行われた政治事業である。 彼は中国の「律令」を基にして日本の「律令」を作ったが、その際重大な改編を行った。 中国の「律令」は皇帝の権力を絶対的なものとするが、日本の「律令」は天皇の権力を 出来るだけ少なくし、太政官の権力を大きくするものであった。この太政官の中心に 藤原不比等がいて、代々その地位を子孫に継承せしめたのである。従って、日本の「律令」 は天皇ではなく、藤原氏が中心になって政治を行えるように初めから出来ていたのだ。 それによって藤原氏は、一時の中断はあるものの、約四百年の間権力を独占し、鎌倉時代 以後もずっと宮廷を支配し続けることが出来た。・・・ ・・・ 平安時代の初めに強い権力を持っていた嵯峨天皇などは、自分の皇子に「源」とか「平」 という姓を与えて臣下にし、高い位に就かせた。こうして臣下になったのが源氏であり、 平氏であったのだが、やがて源氏や平氏は藤原氏との争いに負け、その子孫たちは東国に 赴いて武士の棟梁とならなければならなかった。」と中で書いている。 梅原氏は哲学者です。簡潔に説明されていて、さすがです。分かり易いです。 秦氏は藤原鎌足の一族とその後、姻戚を重ねていったのです。継体大王との結びつきといい 時の権力者とこれほどうまく融合していく才覚は智恵だけではないのでしょう。先見の明 に長けた民族だったと考えられます。 [ MEMO 024 ]1999.4.18 薄墨桜と淡墨桜 TOP 大野にはどうも縁がありそうです。淡墨桜が根尾村にもあると言う。 樹齢1500年といえば継体大王の頃に植えられたことになる。 薄墨桜は福井で天然記念物になっている。 京都の北にある亀岡の行者山山麓では桜石が有名である。根尾村には菊花石がある。 いずれにせよ薄墨桜の分布は調べてみるに値するようです。 (参考)根尾村の歴史 根尾村の歴史は有史以前にさかのぼります。根尾東谷で産出する菊花石は約1億年前に 海底火山の噴出によってできたものとされています。今でこそ山村ですが、 当時は海の底にあったのです。 時代は流れ、縄文時代。その頃、すでに根尾村には人が住んでいました。 それは松田、能郷、八谷などの各地区から出土した土器・石器が証明しています。 大化の改新後、美濃国にも郡が設置され、能郷白山の南山麓までは西根尾として 大野郡に属し、東部は東根尾として本巣郡に属しました。715年には里を郷に改め、 遠市郷が根尾村に存在していたと言われています。 このように根尾村では、太古の昔から人々の生活が営まれてきました。
|古代への旅|嵐山文学

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