
古代メモ 十二 ー 記載事項リスト ー 弥生前期の水田跡(京都左京区) /丹波王国/埼玉稲荷山古墳の鉄剣 /記紀について / 鳥取県の三の付く地名 /鳥取県の八の付く地名 /香川県のため池群 / 百済支援ならず /滋賀・北牧野古墳群 / 前頁に予告しました「不思議な出来事」については次のページで扱うことにしました。 つれづれに【 残照 】 [ MEMO 115 ] 2000.10.21 弥生前期の水田跡(京都左京区) TOP 京都大学の構内で新たに水田跡が発掘され、土器年から弥生時代前期とされた。 以前発掘された水田跡から一キロ以内であったという。土器と水稲田の関連記事を 参考までに転載します。 突帯文土器の成立と水稲農耕の開始 西日本に突帯文土器様式が成立する。突帯文土器の成立と水稲農耕の開始は一致せず 後者がわずかに遅れる。その関係で基本的な器種構成が地域圏によって異なり、 東部九州より東の地域では甕と浅鉢、西部九州では甕、壺、浅鉢、高坏からなる。 東部九州以東の普遍的な突帯文土器は瀬戸内型一条甕だけで、尖定または丸底の 底部をもち口唇部の刻目文やへラ描き沈線で華美に装飾する吉備型甕や、同じ器形だが 平底で突帯文以外の文様はほとんどつけない下黒野型甕、刻目をつけない突帯文土器の 土佐甕がある。水稲農耕が存在した証拠はまだみつかっていないが、西部九州に近い 東部九州や伊予ではこの時期まで水稲農耕がさかのぼる可能性は残されている。 西部九州では、突帯文土器が成立したときから水稲農耕を営なんでいたと 考えられる。しかし水稲農耕の内容は一様でない。山ノ寺・板付地域圏や夜臼・ 板付地域圏は朝鮮無文土器文化とほとんど同じ道具を使い同じやり方で同じ思想に もとづいて水稲農耕を営んでいた。 器種構成には、定型化した無文土器系の壺、組成率の低い浅鉢、祖型甕や朝鮮 無文土器系甕といったかたちで反映されている。突帯文土器も西部九州型一条甕、 同二条甕、砲弾型一条甕がそろい底部は平底である。一方、山ノ寺・亀ノ甲分布圏では 水稲農耕をおこなっていた状況証拠はあるものの、定型化していない壺や高い浅鉢の 組成率、セットで揃っていない大陸系磨製石器からみると、突帯文土器を使っていた 人々による水稲農耕の姿が想像される。・・・・ 西部九州では突帯文土器の出現時からはじまる遺跡が圧倒的に多く、突帯文土器 以前から継続する遺跡はほとんどみられない。逆に黒川式の段階で消滅し突帯文土器 の段階までは続かない遺跡も多いのである。水稲農耕の開始や支石墓の出現に代表 される外来文化の波及が遺跡の動向に反映されたものであろうがその形態はさまざまで あったろう。近畿や瀬戸内の遺跡の消長をみると西部九州とは異なっていることに気づく。 これらの地域では突帯文土器が成立する以前から継続して常まれる遺跡が多く、 突帯文土器の段階から水稲農耕の状況証拠があらわれる。 しかしこれらの遺跡は西部九州のようにそのまま遠賀川式土器の段階までは 継続しない。西部九州において晩期末から早期初頭にみられた遺跡の断絶が、 近畿や瀬戸内では早期末から前期初頭にかけてみられるのである。 このことは早期と前期の二回にわたってみられる水稲農耕の伝播を考えるとき 興味深い事実となる。(藤尾氏論文より抜粋) 稲作の伝播は半世紀という極めて短期に行われた点で多くの謎を秘めています。 確かな足跡は西九州ー岡山ー奈良ー北京都という線が描きうることです。 少なくとも紀元前数世紀の段階でなんらかの交流があったと推理できることです。 地域間の交流なのか、特定の媒介者によるものかは定かではありませんが、 水穂技術を受け入れる文化の土壌が各地にあったといえます。 [ MEMO 114 ] 2000.10.13 丹波王国 TOP 赤坂今井古墳は一年前に発掘され、当時は三世紀中ごろの 築造といわれていた。その後の発掘調査で弥生時代後期末ー三世紀前半の築造に 訂正された。今日の朝刊では、新たに200あまりのガラス玉などが出土したと 報じられていました。 邪馬台国が成立した時期に出雲とも異なる独自の王国が存在したと考えられるという。 宝塚風土記に奈良方面の勢力に追われた王が丹波に住まいを移したと書かれている。 彼らはかつて攝津と呼ばれた地域に稲作をもたらした人々であった。 また、丹後地方には縄文時代の荒ぶれた神の存在が伝承されていて、朝鮮半島との独自の 交易が古くからなされていたとも言われています。出雲と同じく、平和を尊ぶ人々であろう。 イスラエル紛争が報じられた記事と並んで、古代の発掘記事は掲げられていました。 弥生の勾玉・管玉の頭飾りや耳飾りは私達に語っているのです。 宝塚の売布(めふ)神社 豊受大神御厨の地とされる。神社の由来記によれば、 「諸人が未だ草や木の実を採って食物としていた頃、この里にやってこられた下照比売神 (大国主の姫)は、里の人々が寒さと飢に苦しんでいる生活の様子をみられ、これを 救うために麻を植えて布を織ることを教え、稲作りの知識技術を伝えた」とあります。 そして、心ならずも丹波国へ移っていかれたというのです。 下照比売神を豊受乃比売神ともいう。 [ MEMO 113 ] 2000.10.9 埼玉稲荷山古墳の鉄剣 TOP 出土鉄剣の銘文にある辛亥年記載から五世紀末から六世紀初めとされる古墳です。 注目していましたが、とりわけ今回、鉄剣銘文にあった家系の史実性に立って 展開しています。 全長475mの古墳で15年は要すると計算されていることから、全長118.5m の当古墳は数年要したものと想像できます。当地の古墳群は一世紀あまり以後築造される。 被葬者はヲワケ臣とされ、奈良から出向き定着した豪族と考えられています。 当地、行田市周辺には江南・嵐山・花園という地名があり、また小鹿野や葛生 などの縄文以前の遺跡があります。ヲワケ臣の祖は紀元の始まりに遡る。 天皇期では崇神天皇に仕えた頃となります。私が着目したいのは、当地へのルートです。 少なくとも継体天皇の東征以前ないしは先発隊時期のこと、日本海側からか 太平洋側からかということです。継体天皇の東征以前というのは、雄略天皇の時代で 五世紀後半の大和政権の東征時期に遡ることです。 当時までは、大阪の河内が航海の基点であったといいます。距離的には琵琶湖ー日本海 ルートではありますが、太平洋航路は通じていたはずです。ただ長期に及んだり大量の 頻繁な物資輸送を考慮すれば中継地点の国の勢力では日本海側と思います。 毛野国が栃木・千葉・茨城とするなら、どうしても後続支援の充実した長野を経由したと 考えたいわけです。ヤマトタケルの東征ルートは捨て難いのです。 [ MEMO 112 ] 2000.10.9 記紀について TOP 記紀の編纂時に立ち会ってみたとしたらと考える。 それまでに衆知された事実が存在することは確かなことです。 神話という新たな世界を展開することは当時の政権担当としては目的な訳です。 そこで、全ての歴史事実ないしは広く信じられていることに対してまで 創作を施すことは果たして可能だろうか。それは逆効果になりかねない。 権威を持つ神話を編纂する上は、事実などは取り入れる必要があると思います。 つまり反論が優勢となる神話部分は記載することはできないだろうと思うのです。 勿論、反論者との勢力関係の程度にもよりますが、与党と野党の意見の陳述の やりとりと似ています。国民は無知であったろうと想定できます。 風土記との不一致に関しても、当時の扱いの状況が分からないものの、支障がないと 判断されてのことであったと思います。編纂時の勢力関係をみれば、出雲地域の豪族は 大和政権の側にあっただろうから、内容については不問にされたことと思います。 どちらの記載を取り入れるかというレベルのことではなく、神話の不一致が何故 認められたかという視点の上で考察するべきだろうと思いました。 ともすれば、叙情的に扱いかねない風土記の記載です。 追記 「大系日本の歴史」(2古墳時代)ー和田あつむ著ーによると、天武天皇は諸家に伝わる 帝紀と旧辞(くじ)に誤りの多いことを憂いて「削偽定実」を行ったという。この事業は 天武の死によって中断したが、元明天皇によってその意志は引き継がれたといいます。 ただ、天武の「削偽定実」は国家的事業ではなく、私的なものだったともいう。 [ MEMO 111 ] 2000.10.6 鳥取県の三の付く地名 TOP 再び、次は「三の付く地名」です。 三朝温泉という西日本では有名な温泉があります。 三朝町、三国山、三徳山、三仏寺と集まっている。徐福の伝説ではよく三神山という 言葉が出てくる。各時代において、人々は居住している地名の由来を想像してきた。 長野の波田町や兵庫の宝塚それに京都の地名由来を書いた書物を読むにつけ、由来の 多さを教えられる。地名の歴史は先人の思いが積もっているから小字でも重いのです。 そして、一つ一つの由来話は民話であるといえるのかもしれません。 午前中にここまで書いていました。 鳥取県の西部が震源地となる地震が午後に入って起きました。偶然とはいえ驚きました。 以前から思っている偶然がこうも重なってくると、予知能力かしらとつい考えてしまう。 鹿児島周辺で地震があった後に、阪神大震災が起きた。今回もそうだった。 各地の震度分布をみたら、震度4の形跡は近畿において、阪神大震災時と似ていた。 確かに九州から北海道や伊豆など地震の相関はバラバラですが、繋がりはあります。 震度の程度に関わらず、地震の発生を時系列に分析してみる必要があると思う。 [ MEMO 110 ] 2000.10.3 鳥取県の八の付く地名 TOP 少し言葉遊びしましょう。 初めに徐福と故郷斉の八神に思い寄せつつ・・・ 「雄略紀に「秦の民が地方に分散し、諸豪族に駆使され、秦造にゆだねられていない 現状を秦造の酒公が天皇に訴えたので、天皇は秦の民を集めて酒公に賜った。 そこで酒公は彼等を率いて庸調の絹廉をたてまつったが、それはおびただしい数量で 朝廷にうず高く積まれたので、『禹豆麻佐』という姓を賜った」とある。 秦氏の本拠地・京都の太秦なのです。」 この中にある「禹」という字が今まで探せなかって、「う」と打っていました。 見つけたのは項羽のページでした。夏啓(=夏王朝の始祖禹の子)という表示です。 実は、この禹帝の聖相になっていたのが徐福の祖先なのです。これも偶然・・・ また、その祖先の名は伯益といいますが、鳥取県は因幡・伯耆の東部にあります。 さらに、無理やりこじつけすれば、東の兵庫県にまたがって、やたらと八の付く 地名があるのです。これを知ったのは夕方の報道でこの地にある関宮町で30数年 ぶりに村歌舞伎が上演されたとあって地図を見て知りました。 (歌舞伎が上演されたのは国宝に指定されている村堂で、過疎地の為に途絶えていた といいます。しかも、上演したのは地元民でなく加西市の高校生でした。) 徐福の一行が航海の訓練と準備をしていたとされる徐福村の東北、海州湾を臨む 山頂の名称が「嵐山」(嵐山頭ともいう)と言います。 嵐山一村や二村の漁民には、今なお当時に、徐福が嵐山頭で丹を煉ったという伝説を 語る人がいるそうです。京都府の丹波や丹後の丹という語源はあまた説がありますが その中に「丹を煉った地」というものがあります。 これは偶然にしては出来過ぎた話で、故郷や出所に鋭敏であった古代の秦氏の 人々が中国の伝説を見聞きして名付けたことだろうと思っていますが、果たして どんなものでしょうか。 こんな取り止めのない空想を休日の午後にして過ごしています。 それにしても市町村のホームページの中身は歴史に関していえばお粗末です。 勝手な苦情ですが奮起願います。 [ MEMO 108 ] 2000.9.29 香川県のため池群 TOP 香川県のため池は約一万六千と言われています。ため池は田を潤し、田園風景や たおやかな山々と美しく調和して、讃岐を代表する穏やかな景観を創り出しています。 水との永い暮らしの歳月を、 連綿とつなぎ合わせて描き上げた風景をご覧ください。 ため池のある風景 弥生時代から古墳時代にかけての集落を辿っていく中で、農業用水路の確保は 地方豪族を育む目安と思える。河川の治水もそうだが、今一つ注目されるのが 「ため池群」です。奈良盆地や滋賀の湖東地区や山城地域そして長岡京周辺、 先ほど訪れた播磨や吉備地方にもため池の集積があります。今なお残っている。 ため池のある風景をこぞって選んだのは渡来系の氏族であることは、ほぼ明らかな ことと考えています。讃岐における空海の治水事業の成功の背景には、民の古からの ため池への情熱があったと思います。 [ MEMO 108 ] 2000.9.22 百済支援ならず TOP 白村江の攻防で敗れ、百済の人々を連れて派遣軍は日本に戻った。唐は新羅とともに 高句麗攻略に乗り出す。同時に唐は大和政権との和睦交渉に向かう。 高句麗は破れ、朝鮮半島は新羅が治めるのだが、新羅は後に敗れた高句麗の救済に転ずる。 唐にとっては直接支配の困難さを知ることになるのだが、そのことが日本への進攻を止める ことになったと思われる。北九州や瀬戸内の水城や山城の築造は唐からの使者に防備の堅固 な様子を示したと想像する。無論日本からの派遣軍と朝鮮半島各地で転戦したことも考慮して 和睦への方針を決めたであろう。敗れはしたが、大和政権はその戦力と国力を唐に対して アピールした戦であったと考えます。天智天皇が大津京に遷都した背景を様々考えると 優れた政治家の手腕を有した人であったと思います。勿論優れた参謀である藤原鎌足が いればこそです。大豪族と地方の中小豪族の対立として壬申の乱をみる人がいます。 円墳築造や石城築造はまさに地方の中小豪族の台頭を伺わせる証であります。 百済支援で朝鮮半島に派遣された兵は、西日本の地方豪族といわれている。 東国の兵士は九州にて待機していたものと考えられています。その理由は、水軍に長じて いることが指摘されているからです。 [ MEMO 107 ] 2000.9.21 滋賀・北牧野古墳群 TOP 昨日、滋賀県高島郡北牧野二号古墳(横穴式石室を持つ小円墳)ー六世紀後半から 七世紀前半ーから金銅製単竜環頭大刀(鉄刀)が発掘された。 県教委によれば、「被葬者と大和朝廷とのかかわりを示し、朝廷はこの地の鉄を 重視していた為に、鉄を供給する技術集団の長に大刀を贈ったと思われる。」と 推測している。北牧野古墳群は約百基ある。 高島郡は継体天皇の生誕の地であるとされています。鉄生産とともに、継体天皇と 関わりの深い豪族の長とも考えられます。五世紀から六世紀頃、当地を勢力にして いた豪族は継体天皇の父である息長氏であり、充分予想しうることです。 小円墳であるというのは、継体以後の政権移行を考慮すれば必ずしも被葬者の実質的な 勢力や業績を示したものではないと考えていいだろう。 単竜は百済系、双竜は高句麗系とされています。滋賀県ではいずれも今まで発掘されている。 ー 続く ー |嵐山古代史|古代メモ1|2|3|4|5|6|7|8|9|10|11|12|13|
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