五 弥生時代前後 ー続き長岡京・雲宮遺跡 BC3世紀頃の環濠跡が新たに出土した(1998・2)ことで、南北約80m 東西に100m以上の環濠集落が存在したことが分かった。この東側にも弥生中期以降 と出土した土器年代判定された環濠跡がある。また、護岸の為設けたと考えられる 杭列跡もあった。環濠の大きさは、巾2・5―3・5m、深さ1・2mである。 この遺跡の位置は、現在の桂川左岸に近く、当時護岸や大きな環濠などの河川氾濫 対策が為されるほど早くから高度文化を得ていたといえる。それは自然からの外圧に 果敢に向かう生活態度を意味するだけではなく、生活の糧を確保する積極的姿勢が 集落を単位にできていたことを意味している。さらにいえば、 弥生後期にみられた小国家群の統合への布石が伺えるのである。 六 古墳時代 五―六世紀にかけての前方後円墳は日本独自のものらしい。それは日本各地にみられ、 その前身は三世紀後半にまで溯ることが出来る。巨大古墳の築造には四半世紀を かけるものもあるらしい。 群集墳の形式は特長的なものの一つである。短期間に築造されて、七世紀に入ると 急激に減少そして消えた。築造流行現象である。この時代をみる時、やはり日本国内の 政治的動向と朝鮮半島における倭国の関与をみなければならないだろう。 記録によれば、AC147年頃「倭国大いに乱れ、互いに攻伐しあう。」 とある。そして邪馬台国の女王卑弥呼出現によって、暦年主なしの倭国に王が 現れたとある。AC265年には、二代目女王・壱予の存在が明らかである。 これ以後一世紀近く、中国大陸・朝鮮半島に大きな変動が起こり記録は途絶え 残っていない。というのは当時まだ日本には、文字使用が公にもなされず、 日本人の言葉や発音が大陸と異なり聞き難く誤解が多く、余計に混乱を生じている。 さて、二世紀の倭国各地での攻伐によって各地に豪族が立ち連合し、ある一定の 勢力バランスが出来上がるのだが、抜き出たのが大和・吉備・北九州・南九州といえる。 これらのことを踏まえて、古墳時代以降の洛西・嵯峨にかけての地域を他地域に 比して急速に計画的に開発した、帰化人・秦氏についてみていきたいと思う。 まず、帰化人達が大挙日本へ帰化した歴史的背景についてふれてみたい。 現存最古の朝鮮史書である『三国史記』によると、四世紀前半に高句麗が楽浪郡に 侵入して、長く朝鮮半島に君臨してきた楽浪・帯方二郡を崩壊させたとある。 その後朝鮮半島は新秩序を求めて熾烈な戦いを展開することになる。四世紀後半には、 高句麗・百済・新羅三国が半島に確固たる地歩を築くことになったが、 百済が当時すでに倭と友好関係にあったのに対して、他の二国は倭と敵対していた。 一方中国大陸の動きは、半島での高句麗侵攻を好まず、342年に燕という国が 大規模な高句麗征伐を行っていて、百済もこの時多くの人質を捕られてていることが 晋書に記されている。 371年 三国史記によると、百済王は高句麗を攻めて王を殺したとある。 402年 新羅が倭国とよしみを通じたと記されている。 369年の任那日本府の成立がその直接的背景になっているのだろう。 まさに、これらの歴史的動向が、帰化人を生みやがて嵐山の歴史風土を形成して いったことを考えると、歴史の深い重みを覚える。
七 秦氏一族の渡来と京都盆地定着 応神14年紀によると、387年に「弓月君、人夫120県をひきいて来朝する。」 (日本書紀)ということの詳細が記されている。つまり次のようなことである。 弓月君は百済からやってきたが、途中加羅国で人夫を止められ、倭国王に助けを 求めた。5年後漸く人夫を新羅から連れ戻した。当時の大和政権は、中国文化や 朝鮮文化を取り入れる為に、様々な技術を有した渡来人を積極的に迎えたのである。 主な帰化人としては他に、王仁氏・倭漢直・西文首らがいた。 彼等は大和政権の外来技術保護育成策によって、勢力を拡大していった。 弓月君は、秦氏の族長で大陸の戦火を避けて半島へ移動し、渡来に至ったといわれる。 中国・秦の子孫とか、半島の秦韓という小国の出とも云われている。 雄略紀に「秦の民が地方に分散し、諸豪族に駆使され、秦造にゆだねられていない 現状を秦造の酒公が天皇に訴えたので、天皇は秦の民を集めて酒公に賜った。 そこで酒公は彼等を率いて庸調の絹廉をたてまつったが、それはおびただしい数量で 朝廷にうず高く積まれたので、『う豆麻佐』という姓を賜った」とある。 秦造の本拠地は太秦である。そこから京都盆地各地に居を置き丹後を始め、 滋賀・愛知・東海・北陸まで既に六世紀に一族は拡大していた。 しかし、長岡遷都以降、バックアップした藤原種継の暗殺や薬子の乱を契機に、 秦氏の活躍は公には姿を消すことになった。ただ、平安遺文に彼等の土地売買記録が 12世紀まで残っている。 こうして、秦氏を中心に古墳時代の洛西・嵯峨の開発をみてきたが、秦氏以外の 土着豪族の働きも忘れてはならない。華々しさはないが、四世紀中期―後期にかけて 桂川流域を支配した首長は向日丘陵に古墳を短期間に幾つも築いたし、五世紀―六世紀に かけて、松尾神社西方古墳群、松尾山古墳群、嵐山山田古墳などが築造されている ことから、その活躍が伺い知れるのである。帰化人との血縁もあっただろうし、 弥生前期の環濠集落跡を重ねると、記録こそないものの、後の長岡京・平安京遷都を 難なく可能にする素地がこの地に先がけてできていたといえる。 ------ 嵐山の古代史 完 ------- / INDEX/ 嵐山文学/