ー 番外編 ー 邪馬台国の所在地 part 2 古代part3 の 続き この時代で鉄剣が戦で用いられたことを示す発見である。剣先が折れ死者の 体内にのこり現在に姿を見せたのである。そればかりか、吉備と近畿が早くから 交易があったことを語るものである。 後にもふれるが、三世紀以前で吉備地方の国が果たした役割は重要かつ大きい。 外来文化の伝達をものの見事にやったという点で、歴史的にもっと評価されても いいのではないか。その点でいえば大和地方の国々が東方への中継ぎに消極的だった ことが理解できない。愛知・三重方面への進出は帰化人達の力量であった。 パイオニア精神は弥生文化で消えたのだろうか。その点で中国人と異なる 民族性がすでにできていたのであろう。西洋・中国にはない和の思想、悪くいえば 功利を優先する思想ができ上がっていたように思える。原大和国の人々は日本土着の 民であり、吉備国の人々はより帰化人に近い民と言えよう。
四 原大和国家の成り立ち 原大和国家の始祖は、崇神天皇とされている。三輪山一帯を本拠地として、 二世紀初めより滋賀・丹波地方まで勢力を拡大した。その中心的豪族はワニ氏で 天理市を本拠として京都―上高野―鯖街道―琵琶湖北部地域―敦賀・小浜まで 通じていたらしい。縄文時代草創期とみられている鳥浜遺跡のあった地域と 結ばれているのである。私の推理としては、鳥浜一帯の縄文人が南下して京都を 経て天理に定住したとしている。これといった理由はない。強いて言えば、 直感である。一年後京都の山に親しんで確信したことがある。それは、日の出の 方角である。西山から眺めた時、桂川の川辺から望んだ時、太陽が昇る先が 奈良であることを知った。無論平地を辿ってのことである。日本海沿岸にある 山から眺めても京都―奈良は太陽が昇る処である。紀元前1000年頃外洋交易が 行われていた形跡も発見された。崇神天皇の始祖も同様南下した縄文人であろう。 さて、崇神朝といわれる崇神・垂仁・景行三代の天皇は実在性在りとされていて、 三世紀末までには、播磨・吉備地方までその支配領域が拡大したと考えられている。 三世紀後半における急速な広がりは、原大和国家が水軍を得た為だと考える。しかし、 まだ吉備は支配に至らず同盟関係であったと考える。 対外的な安定時代が過ぎ、四世紀に入ると、朝鮮半島情勢は北九州連合国に動揺を 齎した。崇神から応神朝までの半世紀足らずに日本に戦いの伝承がない。 明らかなのは、近畿圏にあった銅鐸文化がなくなり古墳文化が始まるや、崇神朝が 途切れることである。 考古学者は銅鐸文化の消滅は村ごとの祭祈の必要性が無くなった為だという。 つまり銅鐸の数で権力を誇示する意味が無くなり、支配者個人崇拝の概念が優越する 時代になったからである。つまり古墳の主である。カリスマ性を高める築造物は 今も変わらない。 邪馬台国所在地への仮説 魏志倭人伝が記載された頃、船による交易の範囲が『邪馬台国所在地』を推理 するキーワードであることは、既に述べたことであった。投馬国と邪馬台国への 距離が日算で記されている。それは使者が北九州に寄港した後、倭国所有の船で 案内されたからである。仮に九州を一周したとしたら航海中に太陽の位置で方角は 分かるはずである。とすれば航海は小船で陸地沿いになされたのではないだろうか。 瀬戸内海が航路として考えられる。距離的に吉備地方が妥当であるが、ここに対外的な カモフラージュの真相があると推理する。貢物をするという行為は様々な意図が 込められている。援助を得ること、国内的な権威を得ること、侵略をくい留める ことなどがある。それは貢ぎ先への脅威を抱くからに他ならない。 当然国内事情をあからさまに使者に知らせるはずはない。これがカモフラージュ する理由である。 吉備地方の連合国が九州諸国と密接に関わっていたことは、 明らかであり、卑弥呼の擁立は吉備連合国が九州連合を統一する為であろう。 吉備にとって狗奴国は朝鮮半島勢力や九州勢力より脅威であった。 文化の異なる種族である。すなわち奈良を本拠とする原大和国が狗奴国で あると考える。船による波状攻撃と陸地からの小規模断続攻撃にさらされていた。 卑弥呼が死亡し、壱予の時代が終わる頃(3世紀末―4世紀初め)、朝鮮半島情勢は 中国支配から解放され半島内の勢力均衡に終始する情勢に変わった。帰化人の渡来は 活発になり、邪馬台国という連合体は国内統一に目が向く。吉備に終結した 連合体は戦いを好まない政略に優れた知恵で東遷を試みたであろう。それは既存の 文化伝達と朝鮮半島という魅力ある文化の宝庫そして侵略という共通の脅威を和合に 結びつけたと考えられる。 銅剣文化と銅鐸文化の合流がなされたのである。帰化人の知恵であり、縄文時代 から続くまほろばの国であるが故にである。その知恵と民族性は統一後の大和政権 交代劇にも伺えることである。国を挙げて戦はしなかった。奈良北東部・ 天理市付近に拠点を置く豪族は京都・滋賀の首長を通して、日本海沿岸諸国と 結びつきを深めていたと考える。淀川水系を交易路として瀬戸内海へ乗りだしていた のではないか。それは銅鐸文化圏で理解できる。銅鐸は集落単独で用いられる祭事品 であって首長の権威を示すものであった。近畿全域と四国徳島に及ぶこの文化圏で 邪馬台国が桧舞台にあった頃の歴史的記録がない。あるのは考古学対象となる 古墳と埋葬品である。最近の発掘調査はいずれもが畿内邪馬台国説を暗示する ものである。それほどに首長の権威が高いことを示したともいえる。カリスマ性を 有し、民を支配していた。皇族支配の方法は帰化人から教えられたものであり、 皇族の僕であるはずの豪族が古墳を築造しうる富と権力を得る知恵もまた帰化人 より教えられたものであろう。朝鮮半島情勢は国内統一を容易に迅速にせしめた であろう。出雲国がその後2‐3世紀中央政権に積極的に従わなかった理由は 地理的状況の他に日本海沿岸地域を独自のカリスマ性で支配していたからではないか。 それは支配というよりもまほろばの拠点であり、交易と文化の始発点として知られ ていたのであろう。大和政権にすれば、出雲の国を傘下に置けば広大な領域が傘下に 置けるという利点があったに違いない。七世紀に古事記を編纂する時、出雲の神々を 特別に記載した理由も理解できる。
五 応神朝の成り立ち 崇神朝から応神朝への大変革は誰もが認めるところである。応神天皇東遷説が 出てくるのも理解できる。しかし、あまりに飛躍しすぎる。後の歴史は語る。 継体朝のこと、大化の改新のこと、明治維新のことを考えると分かる。代表者の 交代すなわち今で云えば社長の交代劇程度であろうか。確かにその後の政権動向 に違いはあるが、政権の屋台骨は変わらない。 応神朝成立前に大和で政権交代劇があったと考える。それを注意深く見守って いたのが吉備国であった。それに乗じる形で九州勢力が大和の豪族と連合した と考える。それは朝鮮半島外交で培った知恵である。 そして卑弥呼を担いだように、男王を好む大和に合わせて応神天皇を立てた。 363年のことである。原大和国家を支えた豪族達にとって帰化人の持つ文化に 関心があった。河内平野に勢力を持つ葛城氏と先記のワニ氏がその代表であろう。 他に天皇の身内的氏族である大伴連・物部連・中臣連がいた。彼等は本拠地を 河内に置くが、もとは大和の豪族であり密接な繋がりを持続していた。伴とは 軍事集団で各地の豪族子弟が出仕した役人のことである。吉備氏も婚姻関係を 結び応神朝に協力している。九州の国や豪族名の記載はない。また、邪馬台国 時代の狗奴国の記載もない。 九州の主立った豪族達は河内平野や淀川水系に 拠点を移したのではないだろうか。四世紀前半―五世紀にかけて、王権拡大過程で 設けられた県によって地元九州は管理しえたといえる。県とは供御領的性格が濃く、 祭祀団でもあった。無論軍事団も配備されていたが首長自ら陣頭に立つことは なかったと思う。瀬戸内海交通が重要性を増し、吉備と河内を拠点に据え王権運営に 当たったものと考える。古墳築造や朝鮮半島への派遣などで豪族を駆り出し勢力 バランスを行っていたと思われる。(葛城・平群氏の派遣など) このようにして、歴史の中心舞台は近畿に転じたのである。朝鮮半島から 齎された文化を土着民族である大和の人々が急速に彼等なりの方法で取入れた といえる。当初は先進地域勢力に主導権を預けたが基盤の確かさの点で地元豪族の 有利は動かなかった。古事記や日本書紀編纂時には九州連合体の姿がないまでに なっていた。ただ一つ、応神天皇の出身だけは消せなかった。だから、神功皇后 の神話が作られ、国譲りの神話が挿入されたのである。出雲には銅鐸文化発祥の 歴史があった。 近代より今日まで邪馬台国論争が絶えないのは、日本という国への思い入れ 以外何ものでもない。歴史が川の流れと同じであればそれでよい。竿さし、 堰を設けるのは人の性であることを改めて認識すべきであると考える。
ちょっと一服して私見 邪馬台国への関心が初めにあった。ほぼ平行して嵐山の歴史を調べて みようという試みが生じた。そこで、帰化人である秦氏が浮上してきて 関心が増大した。歴史が少しずつ見えて、自分なりの解釈が 芽生えてくると、今まで何気なく過ごしてきた生活空間に見過ごす ことの出来ないような吐息が漂うことに気付くようになった。 それが、『嵐山の旅』を書き始めたきっかけである。魏志倭人伝に 記載された邪馬台国と卑弥呼のことが、1700年経てもなお 熱き想いで注視され続けることを感動のままで終わらすことが出来なかった。