ー 番外編 ー 邪馬台国の所在地 part 1
は じ め に 人間が形成してきた『 歴史 』は、人間が本質的に有する性を内包している。 歴史は、人が生きる為に不可欠な環境の一つである。時には川の流れと同様に、 「歴史に竿させば流される。」こともある。しかしその流れを変えることも可能である。 マーケティングリサーチの手法は、一つの竿といえる。集めたデータを解釈する 場合に『 常識 』がまずある。それは、企画の段階から常識で構成されるから、 データの解釈においても結果報告のコメントにおいても、まず常識が優先させられる。 同じことが歴史の解明においても為されてきた。 邪馬台国から応神朝間の200年をいかに推理すべきかと考えた時、その空白を 埋めるデータは殆どない。とすれば、人間と歴史の中に内包されているものに 頼らざるえないだろう。 邪馬台国の所在地を証明するというよりも、200年の 空白をいかに解釈しようとするかが大切なことである。 一 邪馬台国の勢力範囲 二 邪馬台国を脅かすのは何か 三 中継ぎを演じた吉備・出雲の国 四 原大和国家の成り立ち 五 応神朝の成り立ち
一 邪馬台国の勢力範囲 邪馬台国の所在地はまだ九州と近畿説に別たれ論争・研究されている。私は 基本的に九州にあったと考える。当時、人々の行動範囲は戦国時代よりも狭く、 徒歩が主たる遠征手段であり集団戦にも不慣れであったと考えるからである。 他国を支配する困難さは、その国の民をその地で留め従属させて、人の命よりも 優る農耕に従事させなければならないからである。土地の管理は無論のことそこに 居住し農耕に従事する人々の定住を確保する民の規範も強制力となる監督組織もない。 逃げ場が自由自在にある当時では到底難しいと考える。また長期に渡って戦い、戦況を 維持好転させていく専従者の補充も難しい。九州での戦が一対一であったことからも 理解できる。百余国に分かたれていた事実は先記のことを裏付ける。 まず魏志倭人伝の記録から辿ってみることにする。 女王卑弥呼の支配が届かなかった国名が22あると書かれている。その中で 14の国名(志摩・巌木・富貴・水縄・博多・鉾・深耶馬・萩・五ヶ瀬または 厚狭・喜入・八代・えびの・日向・長崎)は該当地名が残っている。後の8国だが、 中国・四国・近畿を考えるとあまりに少ない数である。 次に、距離と戸数の定かな国をみると、対馬・壱岐・まつら・いと・な・ふみ・ づま・やまどと国同志の距離が短く、やまど・くなは当時敵対国であることからも、 行動範囲の狭さ、支配領域の狭さは知ることができる。 「倭、大いに乱れる。」のちに「女王を立てて」漸く「倭国が収まる」とある。 つまり、支配ではなくて共同体として立国させたのであった。自分達の生活行動範囲 を固守しながらその域を出ていないのであった。後に、高句麗が最も勢力を有した時、 朝鮮半島で支配しえた領域は九州程度の広さである。まして日本まで侵攻する力、 占領する力など持てなかった。それを考えると、『倭国統一』という言葉に私達は 惑わされているように思う。 現在の都市規模で立国したり、争いをする目的は、農業生産物確保と他の産物 占有権であろう。生産する目的で人々が集落しているのである。外からの侵略に 対する防御を目的に結束するのが連合体の大きさであった。支配ではなくて交易を 適える為の共同体なのである。だから占いが共通の生活規範になる。それに賛同 しない国は近くても支配されない。個別のまほろばは害を共同体に及ぼさない 限り独立が許されているのであった。
二 邪馬台国を脅かすのは何か
共同体に対する狗奴国の侵攻目的は略奪行為であって征服行為ではないと考える。 当時の中国は三国時代安定期で朝鮮半島や九州への威圧は大きかった。一方、 国内事情を考えてみると、九州と近畿・吉備との間に利害対立は起きていなかった と考える。それは、他国と比して遠い投馬国の官・副官だけが自国人であることから 推測できる。そこで、威圧要因である中国と朝鮮半島情勢について詳しくみていきたい。 BC 108年 漢が楽浪郡と帯方郡などを朝鮮半島に置く(四郡)。 AC 一世紀 朝鮮半島は高句麗と南方の三韓(馬韓・辰韓・弁韓)に別れる。 AC 57年 倭の国王(奴)、後韓に朝貢し金印を得る。 AC 107年 倭国王帥升らが生口160人を献上する。 AC 156年 鮮卑人がモンゴリア高原を統一する。 AC 170‐180年 倭国に大乱あり、その後女王卑弥呼が出現して治まる。 AC 239年 卑弥呼、帯方郡に遣使して魏に朝貢する。 AC 240年 帯方郡の太守が倭国に遣使して魏王の詔書と印綬を渡す。 AC 248年 卑弥呼死す。壱与が女王となる。 AC 266年 女王壱与、遣使する。 倭に卑弥呼が出現して、しばらくすると、中国では漢の時代が終わり 戦国時代に入った。208年、赤壁の戦を境に220年より魏・呉・蜀による 三国時代へと移る。 238年に魏が楽浪・帯方二郡を接収したことが、239年 の遣使を行わせた背景といえる。AC280年、中国では魏から晋の時代に入り、 AC300―306年の八王の乱により晋内部崩壊が生じるや否や、朝鮮半島に 新たな動きが起こる。 三世紀後半の情勢を見る限り、倭国内部の動向として 国力を高めることとなろう。半島では高句麗が勢力を増し、三世紀中頃から九州で 鉄器が広がり、近畿では大型銅鐸が普及する。また四世紀に入ると古墳の築造が 出始める。これは勢力の拡大を意味している。防御の充実は攻撃力の増強である。 人員にしても物資にしても余剰が出れば、それを何かに生かそうという欲望は 自然に起きるものではないか。それに、朝鮮半島での不穏な情勢は帰化人の大挙 渡来をなさしめたと考える。彼等の渡来は新たな居住地と彼等がもたらす文化と 技術を発揮する場を設けようとする動きを支配層にあたえた。 人が人を支配する構図の始まりは帰化人に対してであった。時が経つにつれ、 その構図が倭国内の他国に及ぶのは人間の性であろう。まほろばがまほろばで なくなる原因は、余剰を所有しようとする私欲である。私欲の背景に文化がある。 ルネッサンスが人々に文化欲望を育み、近代文化を形成したように、集落単位以上 の規模で動くことを学んだ弥生人に、帰化人文化は動く方向を数多く与えた といえるのではないか。
三 中継ぎを果たした吉備・出雲の国
先記にふれた投馬国は距離からして吉備・出雲であろう。大量の銅鐸が 発掘された出雲地方を考えると、出雲は除外できる。大和政権後の結びつきを 考えても吉備が妥当である。吉備は鉄器文化圏の境界にある。ここでの最古の 古墳築造は四世紀初めとされる。(湯迫車塚古墳) 奈良の箸墓古墳は 吉備の影響が著しいといわれている。つまり、三世紀後半から末にかけての時期、 大和勢力と吉備はゆるやかな同盟関係にあったと考えられる。大和政権の発足は 四世紀初めとされていること、初代崇神天皇が318年没を考え合わせると、 九州と近畿の繋がりが見えてくる。 ここに一つの推理がある。邪馬台国の壱与が吉備に移り、200年成立と いわれる原大和国家の妃となる。そこで生まれたのが崇神天皇である。 壱与でなくてもよいが、壱与と関係のある女子でもよい。九州連合体が認める 女子であれば、ゆるやかな倭国連合体の中心移動が理解できる。 最近になって、近畿で二つの出土があった。いずれも鉄剣である。 京都の東土川遺跡で紀元前二世紀〜一世紀の墓の木棺から剣先と弓鎚が発見され、 八尾の大竹西遺跡で一世紀前半の鉄剣が完全な形のまま出土した。
ちょっと一服して私見 先日、富山湾の南西部で日本海沿岸地域では最大の前方後円墳が発掘された。 高速道路脇にある森であった。福井から富山にかけては、土地が肥沃であり 漁業が栄え絶えない恵まれた土地である。まほろばの国として栄えた青森の民が 縄文時代から弥生時代に拠点を移したとも推理できる。あるいは、恐竜遺跡の宝庫 でもある富山周辺は生物にとって最良の居住地としてあり続けているのかもしれない。 いずれにせよ、古代国家が日本列島のへそに当たる近畿に根を下ろしたことは 邪馬台国がどこであるかと確定することよりも重要な視点であると最近の発掘が教えて いるように思う。縄文時代がまほろばの国であったことが明白にされている。 /NEXT/ INDEX/ 嵐山文学/