四 縄文時代前後ー続き
舞鶴・浦入遺跡(舞鶴市千歳浦入湾) 紀元前3000年前の縄文時代前期地層から最古級の外洋用丸木舟が 1998.2.4、出土した。他に年代を特定した大歳山式土器片や北陸産の 土器などが見つかっている。 舟の大きさは、へ先から全長約4.6m巾約1m深さ約20cm。直径二mの 杉を割り、石斧でくり抜き焼け石で焦がしている。浦入遺跡では、縄文時代中期の 地層からいかり用の石や桟橋と見られる杭跡も出土しており、当地は船着き場だった と考えられている。 同時期の舟は長崎・伊木力遺跡や福井・鳥浜貝塚など五ヶ所で出土しているが、 分厚く巾広さの点で外洋用として最古級と判断されている。また北東約500mに ある同時代の集落跡からは、魚の骨、蛇紋岩製のけつ状耳飾り(富山湾周辺に多くある) や北陸産の羽状縄文土器片などが見つかっている。 縄文人の広域的海上交易は定説になっているが日本海側で初めて出土した 外洋用舟と船着き場・集落跡などから日本海沿岸の交易起点と考えられる。 浦入遺跡の今回を含む一連の出土は日本海―京都盆地を結ぶルートの早くからの 成立を確定したのではないか。琵琶湖西沿岸ルートや鳥取―吉備ルートをふくめた 日本海沿岸地域と近畿・瀬戸内海地域の交易を実証するものである。 舟といえば、昨年の立冬を過ぎた頃、丹後の海岸にタコブネが漂着する記事があった。 『嵐山文学』9号で詳しく紹介したが、今回の丸木舟発掘の知らせは、昨年の重油 漂着災害も含めて、海流が人々の生活に深く関わっていることを告げている。 地震が起これば津波情報をいち早く流す。現在、交易の主流は飛行機と高速化した 陸上輸送にあって、不安定な海上ルートは裏方に廻っている。しかし、縄文時代に おいては、ゆるやかな文化伝達という重要な役割を担っていた。人々の文化受容に 見合った緩やかさなのである。数千年というゆるやかな時の流れをいとおしく想うのは、 人間として許されないことなんだろうか。 歴史上、激動期はあって当然だろうが、現代社会のように常に激変し続けるのも異常 といえないだろうか。一人の一生が人間進歩でなくて文明進歩の流れに翻弄され姿が 見えない。生命の軽視と人間軽視の思潮はここから派生すると考える。 この浦入遺跡の発見は後に記す鳥浜貝塚遺跡との関連性のみならず、京都盆地に 定住していた縄文人との関連性をも推測しうるものである。『嵐山の古代史』初版に おいては、まだ縄文時代解明を始めたばかりであった。ここ二年の間に原大和国の様子 を解明する遺跡の発掘が近畿地区で数多くあり、次第に縄文時代が弥生時代と遜色ない ほどの文化と集落活動を展開していたことが見えてきた。 鳥浜貝塚遺跡(福井・三方町) 日本海に面した低湿地帯にあり、木の実などの植物が21種・哺乳類12種・ 貝類33種・魚類13種・鳥類80種が判明している。主食はドングリなどの木の実 (5500―6000年前)であろう。旧石器時代から定住生活の場であったと 考えられている。低湿地帯の水分を含んだ砂土に埋もれていた為に数千年保存され 遺されたといえる。 縄文時代遺跡が京都府の日本海側で発見されている場所は他に、丹後半島由良川 河口付近、久美浜海岸などがある。これら日本海沿岸に定住する縄文人が陸上交流 での地理的不便を海上交易で克服したことが浦入での丸木舟発見で明らかになった。 舞鶴湾を一望する五老ヶ岳や青葉山から京都盆地にある愛宕山が容易に眺められる。 そして愛宕山系の手前にひときわ丹波高原が神々しい舞台のように佇む。愛宕山山頂 近くにある電気塔が見えることで私は近親感を抱いた。日が昇る方向は少し右手に なるが丹波高原にまず当面誘われるであろう。それが好奇心なのかパイオニア精神なのか、 あるいは、数万年前から続いていた人間の流浪の旅が育んだ遺伝子の所為だろうか。 *******1998年になっての発掘調査より******* 日々新たな発見が相次いで為されている。琵琶湖湖南の守山周辺での紀元二世紀頃の 大規模な集落跡や一対の祭礼用の建物跡の発掘は様々な歴史解釈を見直す契機に なっている。奈良と京都南部との境目にも大規模な高地性集落跡が発見されており 琵琶湖という湖上ルートがクローズアップされた年となった。これらの元に鳥浜貝塚遺跡 (福井・三方町)があるのです。 京都市と長岡京市の境にも縄文時代後期の大環濠跡が見つかり(淀川ルート)、 航路の重要性が舞鶴浦入の丸木舟発見によって確認されたといえる。私がこの古代史を 綴った一年前には船は朝鮮半島から訪れるものとして認識されていた。日本の中では 広範囲に及び歴史を動かす要因ではないと考えていた。縄文時代を推理する上で 水上交流を主に据える必要を知りました。 西日本最大の縄文墓地 ― 阪南市の向出遺跡 約三千五百年前の縄文時代後期後半とみられる一部環状の二百基以上の地面を 掘った形の土坑墓が見つかった。規模は約五千平方mで縄文時代の墓地としては 西日本最大である。祭祀に使ったとされる男性器を模した石棒も、西日本で初めて 立ったままの状態で発掘された。 西日本では縄文時代の巨大な墓地は数少なく、当時の状況を見直す貴重な資料 となりそうだ。土坑墓は長辺約一・五mの長方形と、長径約一mの楕円形の二種類。 L字形に配置された二基の長方形の土坑墓を囲むように、十数基の楕円形の土坑墓が 配列されているなど、直径七−八mから十八mの環状に配列されたまとまりが三、 四カ所確認された。墓穴から人骨は発見されなかったが、関東や瀬戸内産とみられる 土器の破片や石が詰められていた。石棒は直径約十cm、長さ約三十cmで、うち 約十cmは地中に埋まっていた。先端部分が欠けており、元は五十−六十cmだった とみられる。 巨大な環状墓の可能性がある。 秋田県鹿角市では、同時代の墓域で環状に配列された列石(ストーンサークル)が みつかっている。列石のない遺跡もあることから可能性はあるとのこと。今回の発見で 東西の縄文文化にそんなに違いがないことがわかった。沖縄、シベリアなど広域視野で 研究する必要があるという。 また、同日、桜井の東田大塚古墳は、三世紀後半の最古級の前方後円墳と判明した。 五 弥生時代前後
弥生時代の始まりはBC四世紀で、終わりはAC三世紀とされている。 35000年前に移動を始めたモンゴロイド(黄色人種)の蛇崇拝は彼等が各地に 分散していっても変わらなかった。(縄文時代模様は蛇崇拝からできたといわれ、 中南米のマヤ・インカ文明も蛇崇拝である。オーストラリア先住民アボリジニの多くは、 「蛇は我らの先祖」という神話を有している。蛇模様は皿に描かれている。) 縄文土器の形式分類によって、日本列島が七文化圏に区分されるほど縄文小集落は 各地に分散していった。そうした拡散、定住の後に、稲作と金属器に代表される 新しい文化が大陸から渡来することになる。2400―2300年前より弥生時代と する説もある。その新しい文化を受け入れる文化的素養を縄文人は備えていたのである。 京都で最古の弥生遺跡は、烏丸中立売で発掘された土器片である。南朝鮮―対馬― 北九州経路で、稲作・刃物は伝わる。遠賀川遺跡(福岡県の中央部を流れる川)では、 紋様豊富な弥生土器が発見される。この土器の東限は愛知・尾張・奥丹後であるが、 BC三世紀頃、日本海沿岸から伝わったと考えられている東北地方の稲作・土器の発見 がなされている。北部九州から近畿へは瀬戸内海沿いに船で運ばれ、次いで海沿いに 伝わったとされる。京都盆地へは淀川水系を辿って伝わる。 一方、1992年10月15日発表された丹後大宮三坂神社墳墓群の出土品である。 一世紀末の素環頭鉄刀や一世紀頃の水晶玉作り工房跡確認(これは同じ丹後半島の 奈具岡遺跡)から、九州―丹後半島ルートも考えられる。 この時代、賀茂川の氾濫地帯に当たる烏丸中立売や桂川下流の長岡京雲ノ宮など 京都盆地の低地帯に初めて農業を営む人々の村ができた。そして桂川・高野川・ 白川流域など各地に急速拡散した。 中でも桂川流域開発は特に早く進行した。向日市・森本にBC100年頃の 水田跡が残っている。農村形成はさらに深草・山科へと拡散する。 同じ頃、き畿内中心に銅鐸祭りが行われ、右京区・梅ヶ畑の山中に四個の銅鐸が残る。 (集落跡は発掘されていない。) 弥生後期、日本列島は各地に成立した小国家群の統合をめぐる激動期を迎える。 古墳時代初頭にかけては別冊『邪馬台国』を参照して下さい。
ちょっと一服して私見 おぼろげな吐息の正体が見え始めたといえるだろう。歴史を知識として 豊富に持つことで見えてくるものがあり、知らないよりは深く感銘することができる。 そのことは基礎的な素養であるといえる。日毎、新聞紙面に記載される考古学上の発掘・ 研究記事への関心度も違うし、感慨の大きさも異なるであろう。 しかし、そのことを改めて語りたかったのではない。 歴史については多くの人が既に身につけている。歴史そのものの理解ではなくて、 風土における歴史の作用について理解したいのであった。見え始めたばかりである。 人間を含めた風土にいかにそれを生かすかが課題である。 『嵐山文学』の中で試みていきたいと思います。 緊張の糸を張り詰めて過ごしてばかりいられません。でも時には大切です。