はじめに 嵐山の歴史は平安遷都から始まると思っていて、それ以前のことを調べもしなかった。 ところが散策したり、朝夕の渡月橋辺りでしばし安らぎを
求めている時に、 どうもそこでの感慨がそぐわない、1200年の歴史
だけではなさそうだと思った。 気の遠くなる時空へ誘われる自然の吐息があるように思った。 その吐息は嵐山で覚えたのではなかった。
時間が許す限り山に登り下界を一望する という旅先での習性は、そこでの固有な地域特性の他に、ある共通した ものの見方を備えてくれたのである。山頂から一望した下界は概ね平面図に 描かれた景色であった。それが都会であれ農村であれ漁村であっても、
図柄や色調の違いこそあれ 一枚の平面図として見られた。そこでの感慨を抱いたまま下界に 立って山並や河川の様子などで捉える地形の輪郭把握にとって、
建物の形や外観の模様あるいは道路や道路上の 様々な置物がいかに特徴のあるものであっても、山肌の樹木と 同列に置かれる。この見方が自然の吐息を覚える第一歩であった。
まだこれだけでは繋がりがない。 結びつけたことは次に述べることであった。
鉱石に興味があって地学図鑑に記載された山に出向いた際、 尾根道に花崗岩の露出があり、それを握った時硬いはずの岩石が もろく掌の中で粉砕したのである。知識として岩石は風化によって 砂になり土になると得ていたが、この手で感じ取るのは初めてであった。
この体験が岩石や河原石への思慕と合わさって、 はるか時空の彼方へ誘う契機となった。つまり、樹木や街の下に変わらぬ 大地があること、そしてその姿は山頂から一望して得られること、 掌に感じた岩のぬくもりが吐息の証であることを知り得たのです。 そのおぼろげな吐息を詳しく知りたいと
今回、当地嵐山を題材に取り上げたのです。
一 日本列島の形成 地球がマントルと核で形成されたのが、今から約45億年前と云われている。 最初の海と大気は、約38億年前にでき生物は4億年前に陸地へ進出した。 シルル紀(4億9000―1000年前)、日本列島付近の海は熱帯近くに あったらしく3億6000―2億4000年前の秩父古生層の珊瑚は陸地から 近いもので、日本各地の山地で見られる。 1億5000年前頃日本列島はまだ存在せず、中国山脈の一部がアジア大陸に、 飛騨山脈や北陸の一部がその沖合いにあった。これは2億4000―1億5000 年前の間に造山運動が起こり、一部が海面上に現れたと考えられている。 そして造山運動はさらにその後も続いていた。(アジア大陸が海へ向けて成長して いたと考えられている。) 約1億年前、日本列島辺りに大断層が起こり中央構造線が形成され、その南北 には変成帯ができた。(造山運動との関連と見られている。) 中国地方などに 多量の花崗岩が貫入したり、日本海側に大きな湖や沼が形成された。こうして漸く、 日本列島は誕生したのである。 新生代第三紀(6400万年前―200万年前)に日本海が出来る。 ー 琵琶湖博物館が発刊している資料によると、日本海ができた1700万年前ごろ 西日本には第一瀬戸内という海が広がっていて、鈴鹿山脈西側のふもとに 海があったといいます。 琵琶湖の生立ちとしては、四百万年前に三重県上野盆地に誕生した大山田湖が80万年 水をたたえた後に土砂で埋められ消滅し、以後阿山湖ー甲賀湖ー蒲生湖ー堅田湖と 位置が北上する形で誕生消滅を繰り返し、現在の位置に定着したと考えられています。 その間三百万年の歳月です。 蒲生湖時代(250〜180万年前)と考えられている73個のゾウ類と944個の シカなどの偶蹄類の足跡化石が近くの日野川ダム付近で発見されています。 蒲生湖時代の末期(180万年前)と考えられるアケボノゾウの骨格が1993年 北の多賀町で発見されています。ー この時代になると火山活動が活発化して、特に海底火山(日本海溝からもぐり 込んだマントル対流の一部が地下で高温となり溶岩となって地表へ現れたために起こる。) の活動により生じた火山灰が海底で変質してグリーンタフ(緑色凝灰岩)という岩石ができ、 それが隆起して陸地になったのがフォッサマグナ地域と呼ばれ、北海道西部から 本州日本海側の地域に分布している。 日本列島最南部に四万十層があるが、これは日本列島の成長と考えられている。 (佐川造山運動以後に形成)また、日本の石炭は石炭紀ではなくこの時代に つくられたものである。富山県の立山山麓の崖に露出した恐竜の足跡化石は、 約1億3000万年―1億2000万年前の地層であった。年代的には造山運動が 日本列島形成に向け活発化している時期である。 京都市西部から西北部にかけて連なる愛宕山山系が海底火山帯のなごりであると 推定する根拠をこの日本列島形成から伺い得るのである。 二 京都・洛西地域の形成 白川砂の名で知られている清く白い砂は、白川扇状地を作っている堆積物である。 この扇状地は、最終氷河期の頃形成された。それは、約22000年前、南九州の 始良カルデラの噴出物である火山灰を含んでいたことからわかった。 比叡山系の上昇と京都盆地側の沈降でできたこの一帯は、中生代・古生代のチャートや 砂岩からなる堆積岩を持ち、中生代終期頃、花崗岩を作るマグマのせり上がりがあった。 その時できたホルフェンスと呼ばれる硬い変成岩も白川によって比叡山より運ばれている。 このように、断層を伴った地形が今日見られる山並に形成されていったと言われている。 約130万年―30万年前までの間に、七回に渡って京都盆地の南半分まで海面が出現 したと考えられている。(更新世あるいは洪積世) これは、寒冷気候の氷期と温暖な気候の間氷期とが数万年ないし数十万年間隔で繰り 返されたことによる。この海面湖を古京都湾と呼んでいる。亀岡にも巨大湖ができ京都と 繋ぐ保津川は現在と比較にならない水量によって深く侵食された。その為に海底火山時代 の数億年かけてできたチャート層まで露出させた。 この海面出現によってできた海成層が西山山麓や向日長岡丘陵地で確認されている。 その後、断層活動が活発になり(樫原・光明寺・金ヶ原断層)、30―40万年前以後に 断層西側の丘陵地化が進んだと考えられている。そして、最後の氷期(約6万年前―約1万年前) の活発な侵食でV字型の深い谷の形成や丘陵・台地を形成した。 三 旧石器・先土器時代とその終末期 考古遺跡での、嵐山・嵯峨の地における人間生活の始まりは、少なくとも数万年前とされる。 石金族や尖頭器などが発見されただけであるが、先土器時代遺跡と扱われている。 菖蒲谷遺跡は標高100m位の山中にあり、狩猟に使用したと思われる尖頭器が採集されている。 この谷は縄文時代にも続いて狩猟場となったようで池畔からしばしば石金族が発見されている。 谷は清滝川に通じ、清滝川の上流は日本海へ通じる街道に沿っている。 これより少し前、旧石器時代後期(約3万年―1万年前)と思われるナイフ形石器が洛西・ 大枝遺跡で発掘されている。ナイフ形石器は国府文化圏に属して尖頭器より前の文化と考えられている。 約12万年前の陸地を考えた時、日本列島へ渡った祖先のルーツは朝鮮半島、中国大陸、 シベリア沿岸経由が揚げられる。旧石器時代の石器発見は岩宿遺跡が初めてであった。土器発見に 主眼が置かれた日本では、外国に比して旧石器時代の研究は大きく遅れたといわれる。京都盆地を 囲む広大な山地の発掘調査は、歴史的な木材供給の必要性から困難な状況でもあった。ただ確かなことは、 人間が居住する環境としては整っていたといえるだろう。 四 縄文時代前後 比叡山の西南麓・北白川一帯は、縄文時代早期6000―8000年前より場所を変えながら 生活していたことが、遺跡群から理解できる。近畿では、縄文草創期12000―9000年前、 北部福井・三方町の鳥浜下層遺跡が発見された。中央部では桐山和田遺跡が発見されている。 縄文早期遺跡では、京都市内の北区衣笠氷室町・西ノ京・下鳥羽・大枝・大原野・北区西賀茂・ 長岡下海印寺などがある。 京都北山から派生するように移動生活・定住生活の場が広がっていると推測できる。 現在岩田山に集まる自然猿の行動範囲によく似ている。彼等もまた時には平地に降りてくる。 縄文時代前期になると、嵯峨野・中京区一帯、縄文中・晩期になると、山科・伏見・向日市内 というように平地への移動が伺える。 さて、京都人の先祖はどこから来たのか。 草創期の鳥浜や兵庫の明石遺跡があればそこから推して考えるべきであろう。海岸に上陸した。 氷河期の陸続きであった頃に。しかしあまりに考古学上の遺物が人骨も含めて少ない。 ただ最近、京都の北部舞鶴湾で紀元前3000年頃の外洋用丸木舟が発掘された。弥生時代頃 からと考えていただけに10人乗れる舟となれば再考せざるえない。 ちょっと一服して私見 二月初めに見舞いがてら、久しぶりに遠出しました。 倉敷に行ったというかその地に暫く過ごしただけですが、 病院の個室窓に映った吉備路が素晴らしく、 戻ってからもその残像が離れませんでした。 病室で御一緒した方は総社市から見舞いに来られた。 一週間後、古代吉備国にある鬼ノ城発掘の報道番組があって 『邪馬台国の所在地』を調べたことも手伝って興味深く見ました。 桃太郎伝説も総社にある鬼ノ城も吉備国の実態解明に欠かせないことを得ました。 それ以上に興奮したのは、嵐山とゆかりの深い秦氏の一族が 吉備国でも深く関与している事実を知ったことです。