『 高野悦子 』PART2・・・ 間人 彰 1 話 彼女の世界とは 1998.12.1 『 世界 』つまり「人間が主体的態度で何らかの価値観に基づいて形成したものである。 実体験によって育まれた価値観であって理論的概念ではない」 1話 [ 補足事項 ] 世界に関連するもの { 随時追記 } 1998.12.2 幻想とか夢について触れなければならない。一過性とはいえ 心は幻想とか夢について再現することができるのです。・・・・ 2 話 未熟であること 1999.2.28 3 話 世界の創造 1999.2.28 今から三年前に「二十歳の原点」についてまとめたものを 二月に編集し直しました。 紹介することが主たる目的だった為に客観的な立場で 辿っていきましたが、この続編では主観的な立場で展開 していきたいと考えています。従って少なくとも理解してもらうには 「二十歳の原点」は読んでから共に考えてほしいと希望します。 プロローグに代えて ー ある対話 ー ( Oさんの手紙と語る) 青色文字 ・・・ 間人 彰 まず、私は今年23歳です。この本を読む上で読み手の年齢はけっこう 重要な要素になるのではないでしょうか。 そういう意味では、本「二十歳の原点」と接したのはほぼ同じ頃でした。その前に 映画を見て私には全体像が作られていましたし、心の中に受け入れる部屋が設け られておりました。先入観というものでしょうが加えて自らの同時代を過ごした ことも織り交ぜられたようです。年令的にいえばアイデンティティーが成される 頃です。その視点が重要なのです。このページの末尾に少し触れておきます。 当然、私は学生運動を知りません(経験してません)。私が初めてこの本を 読んだのは高校1年の時でしたが、高校1年の知識ではとにかく書いてある こと全てに反応してしまいました。つまり、どういうことかと言いますと、 頻繁に出てくるマルクス主義もしくはに学生運動に関する記述にも目が行ってしまうのです。 この本には、人間として普遍的な問題意識を提示している部分ばかりでなく 当時の時代背景をも如実に反映している部分もあると思います。初めて読んだ ときに私は物珍しさから学生運動の思想的なところに目が眩んで肝心の人間と しての普遍的な問題についての記述を十分に意識できなかった気がします。 例えば、69年2月11日の日記に「私の敵が独占資本であることにうすうす 気付き始めた」なんていう記述がありますが、さすがに真に受けることは なかったものの違和感を感じながらも「そんなものかな〜」と思いました。 ただ、何度か読み直すうちにその違和感のようなものが、普遍的なものに 紛れ込んでくるその時代特有の空気のようなものであることに気付きました。 彼女も高校生の頃、奥浩平さんを本で知り傾倒していったのです。それによって まず自分と自分を取り囲むものを疑うことを学んだのです。知ったということです。 ですが、時代考察も思想の理解もできるはずもなく、イメージだけが鮮明に芽生えた といえます。「そんなものかなー」で留まれば違ったでしょうが、彼女の場合は彼に 惚れてしまったようです。その辺りは「二十歳の原点」以前の日記本を読めば鮮明の 度合が理解できると思います。 文学作品を読むときにその書かれた時代背景を考慮すべきかどうかという ような難しい議論はよくわかりません。ただ、この本の日記という性格上 時代背景を踏まえて注意しながらこの本の提示する普遍的な問題意識を 読み取らなくてはと思いました。とくに、同時代を生きていない私には それは重要なことに思えたのです。 そうですね。その通りです。例えば夏目漱石の本を今の人が読む時、明治 という時代や文学自体の成行きが理解されていなければ斜読なども手伝って 単なる純文学と遣り過してしまうこともある。ある人は『わたしの読み方が浅い せいもあるかもしれませんが、実存哲学の定番に慣れているので高野さんの 人間の代表のような物言いは鼻持ちならないと言うか、しっくりいかないもの がありました。アフリカの未開社会のほうが素晴らしいとありますが、実際その 世界に入ったら人間の社会である以上、虚栄妬み欺瞞はあると想うんです。 ないと仮定できるのはその世界に入ってないからとしか想えないのです。 わたしは初めからこの世界しかないと想ってるし、どこかに素晴らしい世界 があるなんて信じられない。また、人間はつまらない生き物とありますが、 わたしがもし学校でこんなことを言ったら「つまらないのはあなたがでしょ。 人間・大衆を論じるだけの経験・年齢を経てるんですか?」と言われるでしょう。 大衆を論じるということは少なくとも本人の意識では大衆より高い視野に立ってる という前提が必要です。どこで大衆より高尚だと判断できるんですか。 生まれながらに何か重大な使命を負ってると錯覚することはわたしには馴染めません。』 とコメントしてくれましたが、同じような遣り過しになっていると思うのです。 それはそれでいいのかもしれませんが、私には嫌なのです。この「私には」が とても大事なことだろうと考えます。何故馴染めないのかを掘り下げて考える 時間が持てない事情があるのです。価値観もあるでしょう。 さて、以上のような方向性を決定づけた本があります。それは、関川夏央 さんの「砂のように眠る」(新潮社・97年)です。この本は、当時のベスト セラーを通しての戦後論なのですが、この論評の中の「二十歳の原点」に 関する記述を読むことで、私は「二十歳の原点」を時代背景を踏まえて読む ことができるようになったと思います。 現在もなお心の中に高野さんの遺志を引き継いで持っているのが自分だけではない と知ったのは昨年嵐山文学を刊行してすぐに同人を探していた折り一人の方から 次の返信手紙をいただいた時でした。 「高野悦子の『二十歳の原点』を見つけたのは、その頃、 時々訪れていた友人の下宿の本棚にでした。貪るように読み耽り、気がつ くと空が白み始め市電の走る音が聞こえてきていました。朝霧の中を、自 転車をこいで帰ったのは、ちょうど二十年前の秋だったろうと思います。 現実にうまく着地出来ず、いまだに『あの頃』、高野悦子の峻烈な自我 に揺さぶられ、高橋和巳の孤立無援の思想に魅入られていた青年期を曳き ずっている私ですが、突然のことで、貴兄の冊子発行に込められた意気に 十分なリアリティを以って添えないでいます。」 そして年が明けて意を決した私は冊子を作りました。 最初新潮社から新刊本として出された「二十歳の原点」には読者からの切実な自己批判 を交えた生真面目な声が付録としてありました。それはまたDATAとして要約して 掲載予定ですが同世代ということもあって私は彼等の想いを今も大事にしています。 そして、今回、Oさんからの手紙でさらに意を強めているのです。高野さんの遺志は 「二十歳の原点」とともに遺されていくと。しかし一方で読者の中には時代に 翻弄されて不充分な理解のまま「二十歳の原点」を遣り過す人もいる。だから継続して 彼女の遺志を問い続ける者が必要だと考えているのです。 NEXT 表紙に戻る