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其の四....750〜桓武朝初め
蝦夷と出羽国・陸奥国の担当者の交流以外に庶民の自由な交流は勿論為されていたと
されている。血縁関係も盛んであったという。四半世紀の時は世代交代を為させ、蝦夷民と大和民の
区別を薄れさせていっただろう。780年頃に伊治郡の伊治氏が多賀城を占拠する事件がありました。
蝦夷に組したとされますが、これは大和側に立つ判断で、実際は帰順した蝦夷人も地方の豪族の
一つとすれば、坂東における後の叛旗と同じ状況と見るべきだと思います。
蝦夷の人々は早くから交流によって鉄の精製や馬の飼育技術を修得していますから、こと武力では
むしろ当時にあっては坂東民より進んだ意識を持っていたと考えます。
その意味で「武士の起こり」を彼らの中に見出そうと「其の一」に触れたのです。今一つは
蝦夷征伐による坂東その他の軍事に携わった浮浪人はじめ小豪族の武の養生にあります。
出羽国朝日村の多層民家の風習はいわゆる兵農兼業と防衛の意味で生まれたとも言えます。
農民の次男以降の者の徴用がなされたことを考えるからでもあります。なにしろ長期遠征です。
殺害された紀広純は参議に任ぜられるや蝦夷地の侵略を過激化しつつあった矢先の事件だという。
多賀城は港に近く軍事品は豊富にあったことでしょう。伊治氏や参画した反乱軍は放火した後
北方の蝦夷地へ引き上げてしまったのです。官人はいち早く逃げ返り守備についた農民や徴用兵も
抵抗少なく離散したであろうと思います。光仁天皇が桓武天皇に皇位を譲る背景になった。
桓武天皇がその初めの施策から厳酷な姿勢で望んだ理由でもあります。そしてその厳酷な施策が
あったから人々は武力への依存に目覚めより先鋭化を始めたのだと考えます。
其の三....伊達家と最上家
鎌倉時代の初期に伊達家の祖は米沢から東に阿武隈川と仙台道を横切る地域に
その勢力を根付きはじめたようです。藤原鎌足を祖とするという。戦国時代もそうでしたが
二本松はいわば東北制覇するものにとっては臍の地域に当たる。胆沢が桓武天皇の蝦夷地征伐
の悲願であったがそこへの入り口は二本松であります。
米沢の地は出羽・陸奥双方の街道から胆沢に至れる地域といえます。そして日本海と太平洋
に囲まれた東国において最も最短で結ばれる線上に位置するのです。
最上川を遡る上流に米沢があることに注目していましたが、伊達政宗の歴史を解説した本を
昨夜読んでみて、彼が後年仙台に拠点を置いて以後、北上川の治水工事を遥かな構想を描き
成し遂げたことを知りました。その意気の背景に古代秦氏の血脈を伺うのです。
話はあちこちに飛びますけれど、彼の精神の主柱を米沢に見出すと言いたいのです。
藤原氏が摂関政治に留まったこと、東北の藤原三代が東北にのみ君臨したこと、伊達政宗が
東北に終始したことは何を物語るのでしょうか。ここの捉え方次第で歴史の見方が変わります。
継体天皇が長く奈良の古都に居を移さなかった理由とも通じることであろうと思います。
「曇りなき心の月を先だてて浮世の闇を照してぞ行く」ー辞世の句ー
黒脛巾組という諜報組織を抱えていたという。風摩も伊賀・甲賀など
草なる人々は木地師からの流れであろうと推理してます。黒脛巾組に
関する資料の中に「芭蕉」という名の人が書かれていて、今も仙台に
芭蕉ノ辻という地名があるという。松尾芭蕉の芭蕉はそこから名付け
られたのだろうか。
ちなみに、推測ですが、松尾という地名は、俳人芭蕉の故郷伊賀上野の北に接する甲賀村の北の
入り口が水口松尾というがそこからではないだろうか。
其の二....出羽国概要
古代出羽国は現在の秋田県と山形県全域とされています。
初めに扱ってみるのが山形県ですが、茲は私流に言うと次のようになります。
「三日月状の奥羽山脈と日本海に囲まれた地域で、その中に月山ー朝日山地からなる
勾玉の形した山並みがあり、それをまた三日月状に最上川流域の平野部が囲んでいる、
そうした地域が山形県です。」
月山という名の由来は恐らくかくなる地理的特性から生まれたものと思えます。
月といえば伊達家の兜の前立て物です。弦月をデザインしたという。
桓武朝の二次三次の蝦夷征伐を下調べしていく中で知ったことの中に、諸国の浮浪人を
大挙出羽・陸奥に強制的に移り住まわせたことがありました。それは天平の時代から
頻繁に為されていたとありました。桓武朝においてもそれが常識的な考えであったと
述べていました。
今日2000.2.12放映のNHK「映像の20世紀ー『山形県』庄内平野の百年」をみて
特に興味を抱きました。庄内の小作人が満州に開拓民として誘発派遣されたということ。
そして六年間の満州での開拓成果が出た頃に戦争が男を兵役に向わせたというのです。
戦後の農地改革では庄内が検討モデル地域になったとも言います。
大衆に愛される絹糸として地域挙げて宣伝し十倍も生産量を上げたこと、全国一の米生産県
にもなったことが知ったことでもあります。
開拓は戦後も続けられていたのです。これは驚くべき因果ではありませんか。
そんな訳で、芭蕉の奥の細道途上の長期滞在地の一つでもある当山形県に暫く注目調べたい
と思いました。今一度腰据えてみたいのです。
平将門の創建といわれている羽黒山五重塔が羽黒町に聳えている。承平年間(931〜937)に
建立されたというのです。また、城輪柵跡(酒田市)は平安時代初期の出羽国府跡といわれ
今日、それにちなんで「国府の火まつり」が開催されています。朝日村の奥地には養蚕の為に
広い蚕室用に建物が上に伸びた四階建の多層民家があります。大家族で暮らすという慣習が
豪雪に耐え、辛い開拓の歴史を残す精神的な支柱であったのではないか。
(この多層民家なるもの実は美作や越前大野その他でも見ています。調べると
なにか面白い結果がえられるように思います。)
和銅5年(712)に出羽国が置かれ、鎌倉時代初め藤原秀衡ゆかりの徳の前を守り平泉からきた
36人の家臣を中心となって築かれたのが酒田だとされています。
朝日村名誉村民である「月山」で知られる森敦氏、「三太郎の日記」の阿部次郎氏、
そして藤沢周平氏はこの地域の出身であります。心惹かれるものがあったことがどうやら
一つの線で結ばれたようです。それは出羽国という風土ではないかと今考えています。
其の一....蝦夷の地踏み初めし
〜 500
応神・雄略朝時代における東国遠征支配を推理してみると、小競合いの上でお互いが力の差を
判断したようだ。
雄略朝の頃、吉備の豪族前津屋を誅するのに物部の兵士30人が派遣されている。
478年倭王武の上表文「東のかた毛人55国を征し、西のかた衆夷66国を服す」とある。
蝦夷征伐ー『日本書紀』によると、景行天皇の時よりみえる。
・武内宿禰が北陸と東国をめぐって蝦夷の状況を視察
・ヤマトタケルが遠征して討伐
・御諸別王が蝦夷の騒動をしずめる
・以後応神ー清寧の諸天皇の条にも蝦夷の討伐や朝貢の記事あり
500〜600
継体天皇の時代で分かったことは水軍・騎馬団両面による威圧で力の差を示威することが判断材料
となったこと。
589年、近江臣満を東山道に遣わして蝦夷の国境を観させた。(『日本書紀』)
同じ頃東海道に宍人臣鴈そして北陸道に阿倍臣が派遣されている。
600〜700
642年、「越の辺の蝦夷数千内附す」という記事あり、これは蝦夷の代表者が都へやってきた
ことを意味しているという
647年淳足の柵を作り、648年磐舟の柵を作る(屯田兵の始まり)ー 新潟県
658年〜660年、越の国守・阿倍比羅夫の蝦夷地遠征の記事あり、180艘率いている。
秋田・能代へ一回目、二回目は200艘で津軽半島西側へ出向いた際49人をとりこにした。
交戦した蝦夷は北海道から津軽に南下してきた蝦夷という。津軽蝦夷は助けを求めたという。
700〜750
708年、越後国司が蝦夷の居住している区域に出羽郡を新設して、越後国と同じ統治を試みた。
小競合い程度にもかかわらず
709年、左大臣・巨勢麻呂、民部大輔・佐伯石湯をそれぞれ陸奥鎮東将軍、征越後蝦夷将軍に任命し
東海・東山・北陸諸国の兵士をさずけて出羽に派遣した。半年で凱旋している。
712年、出羽郡と陸奥国の最上郡など今日の山形県を加えて出羽国を新設する。
720年、隼人に続いて陸奥で蝦夷が反乱を起こし大伴旅人将軍が鎮圧する。
731年、惣管・鎮撫使が畿内と周辺主要道別に発令。これは国司・郡司の行政を査察する巡察使のこと
翌年節度使という名になる。
737年、奥羽連絡路開通の為、中間の山岳に住む蝦夷を討伐する申請によって藤原麻呂持節大使が
陸奥国に出発する。これは出羽と陸奥が別々に柵を北へ奥地へと前進させたことにもよる。
出羽・陸奥マップ1
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